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undecided

第1章 レグルージュのもとに

 優斗はこのまま帰ってしまおうかと思いましたが、どういうわけか不思議な好奇心にかられて、そのピアノの音色に耳を澄ませました。

 女の子が奏でるメロディーは、聞いたこともない曲でした。おそらく、一般的にクラシックといわれるものであると思えました。ゆったりとしたテンポで、とても悲しげなメロディーだったのです。優斗はピアノに関して何にも知らないので、その演奏がどれほどのものなのかはわかりませんでしたが、きっと大変うまいほうなのだろうと判断しました。

 そして女の子の演奏を聞いている内に、胸の奥がなんだか熱くなってきました。
 
 優斗の涙腺がじんじんとし始めたその時です。ふっとピアノの音が止まりました。

「優斗さん」

「は、はい」

 優斗は相手が自分の名前を呼んだことにびっくりしてしまいましたが、よくよく考えれば最初に自己紹介をしたからでした。

「まだいたのですか」

 女の子は少し、意外そうに言いました。

「いたら迷惑ですか?」

 優斗は率直に聞きました。

「そんなわけじゃありません」

 それからしばらく、ふたりの間に沈黙が続きました。

「ピアノ、とても上手ですね」

 不意に優斗の口から、そのような感想が自然とこぼれました。さっきもいったとおり、優斗はピアノに関してはまったく知識がないのですが、別にお世辞を言おうと思ったわけでもなく、自然な風に、そう口にしてしまったのでした。素人の優斗からみれば、女の子の演奏はプロの腕のようだったのです。

「ありがとうございます。でも、私なんてまだまだです」

 女の子は謙遜して言いました。

「それはいったいなんという曲ですか?」

 自分の無知を笑われるかもしれないと思いましたが、それでも気になったので、優斗は素直に聞いてみました。

「これは『レグルージュのもとに』という曲です」

「ちょっと寂しいですけれど、綺麗でいい曲ですね」

「ええ、とても綺麗な曲です」

 女の子は少し嬉しそうに言いました。それから、「どうしてそんな遠くにいるのですか」と言いました。きっと女の子は、聞こえる声の調子をあてにして、優斗が自分から離れたところで話していることを察したのでしょう。

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