テキストサイズ

七瀬からの補足

第25章 "27章 嵐 コンサート 後半戦

お菊が 言った 『七郎』の説明

お菊が見つめているのは 二宮ではなく 相葉くんです。


お菊は、二宮の理解者の一つですが、二宮を守るより 相葉を守る方にベクトルが向いています。

お気づきの方あるかもしれませんけど、

相葉くんの【魂の前】にこの『七郎』がいます。


お菊が実際に生きていた時代 恋い焦がれ、命を懸けて側にいた。


町を歩く時に使っている名前と考えてください

暴れん坊将軍の徳田様が『シンさん』と呼ばれている感じです

もちろん 架空の人物ですが、


モデルは武田 信吉(たけだ のぶよし)です。
松平 信吉(まつだいら のぶよし)とも 呼ばれています。

この人(信吉)は江戸時代初期の大名で 徳川家康の五男になります。

天正11年(1583年)9月3日、徳川家康の五男として浜松で生まれる。幼名は福松丸 母は甲斐武田氏家臣・秋山虎泰の娘・於都摩(下山殿・妙真院)


天正10年(1582年)穴山氏は信君と正室・見性院の子である勝千代(武田信治)が当主となる

天正15年(1587年)に勝千代(武田信治)が16歳で死去したため、穴山武田氏は断絶する。

家康の五男・福松丸(万千代丸)を見性院が後見人となり、武田氏の名跡を継承させ元服して武田七郎信吉と名乗らせた。

天正18年(1590年)信吉は松平姓に復し、松平信吉と改名する。豊臣秀吉の正室・高台院の甥である木下勝俊の娘を娶った

天正19年(1591年)母が死去したため、見性院が信吉の養母となった。

慶長7年(1602年)常陸国水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。

慶長8年(1603年)9月11日、生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去した。
 死因は湿瘡(痒みなどが激しく長く続くと死にいたる病)

異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる
この人(信吉)は 徳川水戸藩の祖ではありませんが 水戸に入った最初の徳川の地を引く男子であることは、史実です。


七瀬の世界の相葉くんには ずっと 千葉ラブでいてほしいのです。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ