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逢いたいから~恋とも呼べない恋の話~

第6章 Tomorrow~それぞれの明日~

 〝ありがとう〟、その何げないひと言が私の心に温かなものを呼びさましてゆく。
 祐一郎の視線が萌に向けられた。
「萌さんは萌さんのままで良いんです」
 え、と、萌が眼を瞠る。
 彼は表情を和ませ、優しい瞳で萌を見た。
「真面目で良いじゃないですか。それが、萌さんの良いところであり、ウリでもあるわけだから。良い加減なことばかり言って、中身のない人間より、真摯に物事を受け止める方がよっぽど素敵です」
「ありがとう―ございます」
 涙が、溢れてくる。
「本音を言っただけです。萌さんも僕の仕事について本音で語ってくれたから、僕も正直な気持ちを言いました」
 ふと視線を動かした萌の眼に映ったのは、ガラスの向こうにひろがる庭園だった。六月最後の日曜日、そろそろ黄昏刻に差しかかり、蜜柑色の夕陽が片隅の紫陽花を照らしている。真っ青に染め上げられた紫陽花が何株も群れ集まっていて、なかなか豪華な眺めを呈している。
 昼前まで降り続けた雨の名残か、エメラルドグリーンの葉の上に、水晶のような雫がひと粒残っていた。オレンジ色に染まった雫がきらきらと夕陽に照らされ、煌めいていた。
 大きな四角いガラス窓に切り取られたその光景は、さながら一枚の水彩画を見ているかのような感がある。
 萌の脳裡でゆっくりと時が巻き戻されてゆく。
 あの日の光景が甦る。
 彼と初めて出逢ったセピア色の写真館。その前の舗道。舗道沿いのフラワーポットに咲いていた海色の紫陽花の群れ。
 あの日、彼に逢いに写真館を訪れた萌は、彼の妻が妊娠中であることを知った。独りよがりの恋とも呼べない恋に呆気ないエピローグが訪れた瞬間だった。
 写真館を出た直後、雨が降り始め、萌はずぶ濡れになりながら、彼への想いを雨であとかたもなく洗い流し、日常の世界へと帰った。
 丁度、向こうから歩いてきた女子高生の携帯からKポップの〝会いたいから〟が流れていた。
 一年前、一度は終わらせた恋の続きは、今日、この日へと繋がっていたのかもしれない。
 でも、この瞬間、本当に終わった―。
 萌自身、思いもかけない、でも、最高の形で。

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