
異彩ノ雫
第10章 intermezzo 朱の幻想
━━ 明日 月が満ちればこの村は閉ざされる
今宵のうちに行くがいい
驚き 目を見開くばかりの娘の背を
朱夏の手が優しく押せば
石ひとつの結界をたちまち越える
もがくように振り向く娘…
その瞳に映る どこか切ない朱夏の微笑み
…そして意識は暗転する
まるで すべてが夢の中の物語
けれど娘の華奢な手は
あの日添えられた朱夏のぬくもりを忘れない
その耳に
谷あいで起きた山火事の知らせ
心臓が跳ね上がり
弾かれた心のままに
止める家人を振り切り、ひた走る
息をきらし辿り着いた峠からは
月明かりに仄白く浮かぶ廃墟が見えるばかり…
立ち尽くす娘の目から溢れる涙
頬を 胸元をしとどに濡らす
とその時
━━ 何故に泣く
風の中
深い響きの声がふいに聞こえる
━━ 我らは今 新天地へ向かう海の上
そなたらが目にした焔は
道の閉じる夜 私が放った祓えの火
姿は見えぬながら
その声は紛れもなく朱夏のもの
安堵と惑いが娘を包む
━━ 何ゆえ私を…
震える声に言葉は半ばで消えてゆく
━━ ……さて、海の上で泣かれては厄介…
ということ、か
ほんのひと息分の躊躇いを
笑いに紛らす朱夏の言葉に
泣きませぬ、と呟く娘
碧い瞳が心に浮かぶ
━━ 私の想いが留まるのは今宵限り
…わずかな間にも よき縁であった、礼を言う
…………もう…泣いてはならぬぞ
息をのみ
しばし、と伸ばす指先を風はすりぬけ
後に残るは朧に滲む下弦の月
嗚咽が夜にとけてゆく…
(了)
