私の思うこと
第20章 法則の話。
少々深い話なのだけれど、私が思うある説をこの場を借りて通説したい。
『多数人中一人の法則』。
多数決で物事を決めるのは昔からあると思うけれど、しかしそれで一般論やらなにやらを決めつけられては業腹である。
なにが言いたいかというと、例え話。
「五人の集団がいます。五人の性別は男女どちらでも構いませんが、全員が同性だとします。この五人のうち一人は服を着ていますが、四人は服を着ていませんでした。さて、この場合、どちらが正常でどちらが正常でないでしょうか」。
この場合、おそらく多くの方は一人の方、つまり服を着ている方が正常だというだろう。
しかし、ここに場面描写を入れればどうでしょう。例えばこの話が銭湯での話だとするのならば、正常なのは四人の方であるといえるのではないだろうか。それならばその逆も、そういえる。
まだ話したいことはあるのだが、これだけでも話はできるのでしてしまうけど、多くの方を当たり前だと、人はいうという話だ。
服を着るのが法律だと言われたらそれまでなのかもしれないが、しかし例えば法律がなかったとして、街行く人自分以外が服を着ていなかったら、自分の方がおかしいと思うとだろう。おそらく、法律があってもそれは変わらない。
田舎いと思う服でも、グラビアモデルやファッション誌に載っていたりしたら、そうでなくともお洒落だと思う友達が着ていたりしたら、お洒落だと思ってしまうなんて最早当たり前の話ではないか。
どれだけ善行を積んだとしても、自分以外がそれを悪だと思っていたら、それは悪になってしまう。
半数以上に回って少数派をからかうなんて、おかしいと思う。
人は少数派を異常だと思ったり、そこまでいかなくとも変わり者とは言うだろう。
恵まれない人なんて、お人好しそうな人はいうけれど、恵まれないなんて同情しているのは、それは蔑みと同じだと思う。
九十九パーセントの人が普通だとは、だから私は思わない。一パーセントの方が普通なのかもしれないし、普通なんてないのかもしれない。
いや、普通なんてないのだ。
それぞれがそれぞれでいいじゃないかと思う。みんながみんな同じなんて集団、例えそれが人間でなくとも、私は気持ち悪いと思ってしまうかもしれない。
『多数人中一人の法則』。
多数決で物事を決めるのは昔からあると思うけれど、しかしそれで一般論やらなにやらを決めつけられては業腹である。
なにが言いたいかというと、例え話。
「五人の集団がいます。五人の性別は男女どちらでも構いませんが、全員が同性だとします。この五人のうち一人は服を着ていますが、四人は服を着ていませんでした。さて、この場合、どちらが正常でどちらが正常でないでしょうか」。
この場合、おそらく多くの方は一人の方、つまり服を着ている方が正常だというだろう。
しかし、ここに場面描写を入れればどうでしょう。例えばこの話が銭湯での話だとするのならば、正常なのは四人の方であるといえるのではないだろうか。それならばその逆も、そういえる。
まだ話したいことはあるのだが、これだけでも話はできるのでしてしまうけど、多くの方を当たり前だと、人はいうという話だ。
服を着るのが法律だと言われたらそれまでなのかもしれないが、しかし例えば法律がなかったとして、街行く人自分以外が服を着ていなかったら、自分の方がおかしいと思うとだろう。おそらく、法律があってもそれは変わらない。
田舎いと思う服でも、グラビアモデルやファッション誌に載っていたりしたら、そうでなくともお洒落だと思う友達が着ていたりしたら、お洒落だと思ってしまうなんて最早当たり前の話ではないか。
どれだけ善行を積んだとしても、自分以外がそれを悪だと思っていたら、それは悪になってしまう。
半数以上に回って少数派をからかうなんて、おかしいと思う。
人は少数派を異常だと思ったり、そこまでいかなくとも変わり者とは言うだろう。
恵まれない人なんて、お人好しそうな人はいうけれど、恵まれないなんて同情しているのは、それは蔑みと同じだと思う。
九十九パーセントの人が普通だとは、だから私は思わない。一パーセントの方が普通なのかもしれないし、普通なんてないのかもしれない。
いや、普通なんてないのだ。
それぞれがそれぞれでいいじゃないかと思う。みんながみんな同じなんて集団、例えそれが人間でなくとも、私は気持ち悪いと思ってしまうかもしれない。