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叶わなかった物語

第2章 2

「救急車来ます!50歳男性、上腹部痛、腹部膨満ショック状態。血圧…」

「矢野先生、行こうか」
「はい!」

後輩の矢野を連れて、処置室に向かう。

「…今の情報で、状態の見当ついた?」
「いや…全然です」

研修医1年目の矢野は大学の後輩で同じ陸上部
だった。ローテートでERに来て2週間目。

「多分、HCCかな。肝細胞癌破裂。CT撮ってから、止血。カテーテルできる?」

階段を駆け降りながら、後ろの矢野を振り
返る。

「おっせーんだよ!おまえ、陸部で何してた?スタートダッシュ練習しとけ!」
「はいっ!」

ー1時間後。

「先輩、すごいっすね。搬送されて1時間でオペ室」

さっきの患者はやはりHCCで、かなり危険な
状態だった。

「いや、すごいとかあんまデカい声で言うなって。ここじゃ、みんなそうだから」
「みんな…」
「矢野は、小児科だっけ?希望は」

僕が救命救急医になることを選んだのは、
6年生の病院実習の頃だった。
判断のスピードや、「命を救う」最前線に身を
置くことに、とてつもないやり甲斐を感じた。
救急車が来たら処置をし、仕事の隙間に食事を
する。時間が空けばこうして後輩の話にも耳を
傾ける。じつはそれが一番の息抜きだったり
する。

「迷ってんすよねー。実は」
「え、どこと?」
「ここと」
「へー…」

僕も、迷った経験がある。
小児科医と、救命救急医。その頃すでに
父親だった僕は、小さな広輝に何かあれば、
救えるのは医師になるであろう僕しかいないと
思っていた。
だから当然、小児科医を念頭に置いて勉強
していたのだ。

「そういや、広輝くん、1年生っすね」
「うん。機嫌よく学校行ってるよ」
「うわ、ひさしぶりに会いたいなー」

矢野は圭介とともに、小野塚家に入り浸って
いる人間である。
しかしこの頃は仕事が忙しくて来ていない。

「今日来る?」
「え、ごちそうんなっていいんすか?」
「いや、そこまで言ってない」
「ですよね」

そう言いつつ、矢野は絶対に飯を食って帰る
だろう。

「小野塚、矢野。今日上がっていいよ」

医局長が声をかけた。

「じゃ、お先に失礼します!」

内心ウハウハで、僕は医局を出た。
ひさしぶりに、早く帰れる!
僕の幸せは結構安い。


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