甘く、苦く
第73章 磁石 【move on now】session 5
「櫻井さん…これ…」
「あ、大野さん。
この前の、大丈夫ですよ。
ほら、保険の──…」
一通り説明がし終わると、
大野さんはほっとした顔して。
「ありがとうございます。
それとなんですけど…。
今度、引っ越しすることになって…」
「そう、なんですか…」
「ほら、いい加減前に進まないと
怒られちゃいますからね。
貯金ももうすぐ底を突きますしね。」
「そうですね…
いつ頃、ですか…?」
うーん、と唸ってから
「早ければ今週中、
遅ければ来週末ですかね。」
「どちらへ?」
「ふふ、そんなに気になります?」
いつもと変わらない笑みを見せた
大野さんにこっちも笑みを見せ、
はい、と言えば。
「地方です。
好きなことが思い切り出来るし、
コイツも静かなところの方が
安心できるでしょう?」
亡くなった奥さんの写真を
優しく見つめながら、
色褪せた写真に触れる。
…死ぬ、ということは
大野さんも精神的に
かなりキツかったと思う。
初めてあった時の
ビール漬けの日々、
直すのにはかなり時間がかかった。
「じゃ、大野さん、
時間が来てるのでいきますね。」
「あ…もう、ですか…?」
「はい、困ったらいつでも
連絡くださいね。
できたら夜以外で。」
じゃあ、と俺が玄関に
手を掛けようとしたとき、
「あのっ…」
「はい?」
「二宮くんにっ…ごめんって…あと、
ありがとう、って伝えてくれますか…?」
「…はい。わかりました。」
ふたりの関係は知ってる。
そもそもその条件を踏まえて
付き合ってるんだから…。
「では、大野さん。
またどこかでお会い出来たらいいですね」
「はい…!」
ぴしゃり、と玄関の閉まる音。
…そうかぁ。
これで俺の担当さん、
消えちまったなぁ…。
「どうすっかなぁ…」
会えなくなるんか…って
思いつつ、缶コーヒーを傾ける。
今日はこれから飯食って、
ちょっとデータをまとめて…
すぐ帰れる。
……って思ってたのに。