例えばこんな日常
第16章 憧憬モノローグ/AN
憂鬱だった。
なんでこんな約束しちゃったんだろう。
目の前には、ガラス張りの大きなドア。
そろりと中を窺えば、俺とは交わることのない様な人種の人たちが上品な笑みを携えて接客してて。
時間通りに来たものの、なかなか店のドアを開けることが出来ずにいた。
カットモデルなんて、俺に出来るわけがない。
散髪なんて、今まで気が向いた時に自分で適当に切ってきたし。
こんなオシャレな美容室、一度だって来たことないんだ。
潤くんの頼みだからって、何も考えずに安請け合いした俺がバカだった。
そもそも潤くんと俺は住む世界が違うんだから。
こんなネルシャツにジーパンのフリーターが友達だなんてお店の人に知れたら、潤くんの迷惑になるに違いない。
潤くんには悪いけど、もうすっぽかして帰っちゃ…
「にの!」
帰ろうと一歩を踏み出した時、いきなり後ろから聞き慣れた声で呼ばれた。
「ありがとな、来てくれて!
ほら、入って」
振り返ると、満面の笑みで俺の腕を掴む潤くんが。
黒髪をオールバックにしてカチっとキメてる潤くんは、いつにも増して煌めいていて。
万年無造作ヘアーの俺とは比べ物にならないくらいのイケメン。
「…何してんの?入ってよ」
「いや…やっぱ俺むり…」
「えっ、何言ってんの!?もう予約取ってんだから」
『いらっしゃいませー』と言いながら俺の腕を引く潤くんにつられて中に入ると、一瞬で輝く世界に飛び込んだみたい。
何面もの鏡と、大きな回転椅子。
リズムの良いBGMと、何か分からないけどいい香り。
こんなオシャレな場所、初めて来たよ…
周りの店員さんからも上品な『いらっしゃいませ』を浴び、無性に恥ずかしくなって下を向いた。
促されて椅子に腰掛けると、鏡越しに潤くんがニッコリ笑って口を開く。
「緊張してんの?」
「してるよ…だって俺こんなとこ来たことないもん」
「ふふっ、大丈夫だって。
別に普通にしてりゃいいんだから」
俺の前に数冊雑誌を置きながら楽しそうにそう言ってるけど。
こんなの…普通でいられるわけないじゃん。
「ちょっと待ってて、店長呼んでくるから」
「…え?潤くんが切るんじゃないの?」
「俺はアシスタントだからまだ切れないよ。
ちょっと待ってて」