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あの店に彼がいるそうです

第14章 夢から覚めました


「シエラへようこそ、お嬢様」
 耳触りの良い低音の声の中に、一際気合の入った青年の声。
「今夜も素敵ね」
「貴方の前髪の方がずっと」
「あら、一瞬で気づくなんて嬉しい」
 紫野恵介。
 入店一週間で早くも固定客を二十人近く得ている。
 それもキャッスル時代の名声と実力が為す技だろう。
 他店からのホストの移籍に、シエラのホストも少し敏感になっている。
 アカなんて敵意剥き出しだ。
「でも実際のところ、あいつが来てから店も助かってるんだよね」
 閉店後、羽生兄弟と談笑していた時に千夏がふと零した。
「千にいはそう言うけどさあ、やっぱキャッスルっぽいっていうか……なんか、やだ」
「三嗣。んなこと言ってないでお前も頑張れよ。瑞希はともかく新人に負けてるって聞いたぞ」
 俺の後にも二人ほど新人が入ってきた。
 二十五歳の二人組だ。
 年上の新人はそこでもう軋轢が生まれる。
「あいつらおれのこと小ばかにしてるし」
「だったら売り上げで黙らせろよ」
「わかってますー」
 掃除もその新人に回ったので、退店後は時間を持て余していた。
 いつもなら、そう……
 類沢さんの出待ちをしていた時間。
 あれから一か月が経とうとしていた。
 俺は蓮花さん以外にも数人客を掴み、徐々に知名度を増してきているらしい。
 酒も調整できるようになってきたし、何を話せば女性が喜んでくれるのかも少しずつ掴めてきた気がする。

「じゃあ、お疲れ様」
 羽生兄弟と別れた後、何の気なしに店の上のバーに行ってみた。
 窓際の方に、見慣れた背中がある。
 俺は頼んだ梅水割りを持ってそこに向かった。
「お隣良いですか、篠田チーフ」
 白い背広の篠田が振り返り、眼だけで答える。
 隣に並び、無言で飲みあう。
 ネオンの光を見下ろして。
 数分して、篠田が重い口を開いた。
「慣れって嫌だな」
「はい?」
「雅が……類沢がいなくなった店内が、少しずつ新しいシエラとして機能し始めているのを感じる。たった一か月なのに。そうなるように手を回しているのも事実だが」
 飲み干したグラスを置いて、篠田は煙草を咥えた。
 すぐに俺が火を点ける。
「チーフ」
 ライターの火を消して、それを握りしめたまま俺は呟いた。
「前回の給料で、借金半分返し終わったじゃないですか」
「ああ、そうだったな」
 乾いた唇を舐める。

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