テキストサイズ

あの店に彼がいるそうです

第4章 超絶マッハでヤバい状況です

「一夜……」
 明るい声と、笑顔。
「三嗣のやつが仮眠室でそのまま寝たって言うからさ、心配してたんだ。睡眠不足に酒はキツいからなー。気をつけろよ。今夜は蓮花さん来てなかったから、そこは幸いだったな。客を待たしたりしたらそれこそ」
「一夜!」
 いたたまれない。
 濡れた髪が。
 強張った口元が。
 つい、叫んでしまった。
「……聞いたか」
 笑みが崩れる。
 三嗣のブラシが止まった。
「まぁ、ああいう客は今までにもいたよ。相手したのは初めてだったから……ビビったけどな」
「一兄、おれ」
 言葉に詰まる。
 そりゃそうだろう。
 目の前で兄が侮辱されたら、弟にとっては腸煮えくり返る思いだったはずだ。
「三嗣が気にする必要はない。チーフが対応してくれたし、もう来ないだろうよ」
「……そうかな」
「そうだ」
 突然違う声がした。
 入り口に、千夏が立っている。
「一兄、助けに行けなくてごめん」
「ばか。お前は今夜動けなかっただろ。やっと団体客掴んだんだ。自分のことに集中し」
 バサッ。
 千夏がスーツを脱いで、一夜に被せた。
 黒く、銀糸の混ざったスーツ。
「……千夏」
「クリーニング間に合わないだろ。オレ、一兄がいないシエラで働ける気がしないから。そのスーツ、サイズが合えばいいけど」
「いいって。お前に迷惑かけ」
「迷惑じゃないから!」
 脱ごうとした一夜が固まる。
 俺はただ、見守っているしかなかった。
 兄と弟と共にホストでありながら、頂上争いに身を投じる千夏。
 だが、孤立感はあるんだろう。
 今は一人で暮らしていると聞いた。
 二人を支えるために。
「……こんなことしか出来ないんだから、受け取ってよ。一兄」
 無力感も味わいながら。
 今日だって、その客を殴りに行きたかったはずだ。
 類沢以上に。
 でも、出来ない。
 隣には自分を求めて来た客がいる。
 暴力沙汰なんて、出来ない。
「わかったよ。暫く借りる。ありがとな、千夏」
 頷くと、そのまま出て行った。
 淡いグリーンのシャツ姿で。
 その背中は、怒りを抑えるように張っていた。
「俺も情けないな。まだまだ弟に頼ってるなんてよ」
「一兄はなんにも悪くないだろっ」
「そうかな」
「そうだよ」
 俺はやっと言えた。
「そっか……帰るか。三嗣」
「りょうかーい!」

ストーリーメニュー

TOPTOPへ