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山茶花(さざんか)の咲く村~男装美少女の恋~

第5章 旅立ち

やはり、行くのか?」
 静かに問われ、凛花は自らの決意を示すように深く頷いた。
 仇討ちを果たしてから、数日が過ぎている。この日、凛花は皇氏の屋敷を訪れていた。
「そなたが選んだのは相当に辛く厳しい道程(みちのり)だぞ。しかも、一度脚を踏み入れれば、後戻りはできぬ。果たして、倅はそなたが茨の道を歩むことを望むだろうか」
 声は至って穏やかだったが、その裏には深い懸念の色があった。
 上座の座椅子(ポリヨ)に座っているのは皇秀龍―、亡き恋人の父であり、文龍が生きていれば、凛花の義父となったはずのひとである。現在、礼曹判書の要職にあり、国王清宗が最も信頼を寄せているといわれる忠臣だ。
 亡くなった夫人とは評判の鴛鴦夫婦でありながら、何故か若い時分から翠月楼の女将香月と深い関係を続けているという有名な逸話があった。香月がまだ妓生になる見習いの少女の頃からの付き合いだというから、人間というものは判らないものだ。
 まさか香月が実は男で、秀龍と香月の兄が親友同士であったなどと知る者はいない。香月の父の大臣が陰謀によって陥れられ処刑、陰謀の露見を怖れた政敵に一家は惨殺された。残ったのは、幼かった香月一人。香月の兄は事件の起きる少し前、〝自分に何かあれば、弟を頼む〟と秀龍に告げていた。
 様々な葛藤を経て、これまでの人生を棄てて女人として生きる香月を長年に渡って見守り続けてきた関係が、世間では〝香月は礼曹判書の若い頃からの愛人〟と見なされている。秀龍は律儀なその性格どおり、もう四十年以上に渡って、亡き友との約束でもある遺言を守り続けているのであった。
「大(テー)監(ガン)」
 凛花は静かな声音で呼びかけた。
 大好きだった男の父である。既に五十代も半ばを越えた秀龍だが、背筋も真っすぐと伸びて、到底実年齢には見えなかった。頭髪にはかなり白いものが混じっているけれど、せいぜい四十代後半にしか見えない。
 若い頃は息子同様、義禁府一の遣い手として知られ、若い女官たちから熱い視線を集めたという。秀龍が二十歳で初めて科挙を受け、並み居る受験生の中で群を抜いた成績で首席合格を果たした―その話は半ば伝説として語り継がれている有り様だ。
 むろん、凛花は秀龍と香月の関係に秘められた愕くべき真実を知らない。ただ、生前、文龍はよく言っていた。

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