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Tears【涙】~神さまのくれた赤ん坊~

第5章 ♠RoundⅣ(踏み出した瞬間)♠

「―ありがとう」
 紗英子が言い終わらない中に、リビングのドアは眼前で音を立てて閉まった。
 もしかしたら、これで彼の心を永遠に失ってしまったのかもしれなかった。
 いや、そんなことはない。今はあの男も頑なになっているけれど、実際に可愛い赤ん坊を見たら、相好を崩すに違いない。サッカー教室を開いて無料で子どもを教えているくらい、子ども好きの人なのだ。
 大丈夫、大丈夫と紗英子は己れに言い聞かせる。きっと、すべてがうまくいくはず。
 赤ちゃんさえ生まれれば、有喜菜が妊娠さえしてくれれば。
―判ったわ、直輝の子どもを生むわ。
 今日の昼下がり、川べりの土手に座り、まるで勝利を高らかに宣言する女神のように言った有喜菜。
 今、有喜菜のあの科白がまざまざと耳奥で甦った。
―お前という女にはつくづく愛想が尽き果てたが、仮にも長い月日を共に歩いてきた仲だ。
 有喜菜の言葉に呼応するように、直輝の先刻の科白が聞こえてくる。まるで汚いものでも見るかのような視線で、吐き捨てるように言った夫。
 好きな男にそこまで悪し様に言われてまで、手に入れるほどの価値が本当にあるのだろうか。また、紗英子の胸に後悔に似た感情が渦巻き、胸がツキリと痛んだ。
 いいや、そんなはずはない。
 きっと大丈夫、すべてがうまくいく。
 紗英子は先刻から何度も言い聞かせた言葉を呪文のように自分に言い聞かせた。
 子どもさえ、生まれたら。
 私たちの赤ちゃんさえ、生まれたら。
 何もかもが順調にいき、すべてが丸くおさまるはずだ。

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