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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第3章 炎と情熱の章③

 あの女は、欲得づくで動くような女じゃない。晃司がこれまでの人生で拘わってきた、もう顔も思い出せない退屈な女たちとは根本的に違った。だからこそ、惹かれる。どんな手段を使っても手許に引き止めておきたいし、我が物にしておきたい。
―馬鹿者めが! どこまであの女狐に籠絡されたんだ。
 逆に父親に殴りつけられた晃司は、唇から血を流しながら、黙って浩太郎の言葉を聞いていた。
―私は、お前という男をどうやら買い被りすぎていたようだ。今回の一件をもみ消すのに、一体幾ら金を使ったと思っている!? 私は常々言っていたはずだ。たとえいかほど大勢の女と浮き名を流そうと、新聞沙汰になるような愚かな失敗だけはするなと。お前は経営者としては、この私以上に相応しい器だと思っていたのだがな。晃司、私をこれ以上、失望させないでくれ。
 この時、浩太郎は五十九歳に達しており、晃司が本気を出して腕力で挑めば、難なく父を凌いだはずであった。だが、晃司は、ついに一度もうつむけた顔を上げず、父の顔を見ることもなかった。激昂している浩太郎を残し、その場を去っていった。
 晃司の瞳は、曇った日の湖のように不気味に凪いでいた。浩太郎は、その嵐の前の静けさを孕んだ双眸に気付かなかった。
 晃司は、〝氷のプリンス〟と異名を取るほど、どんなときでも自分を見失わない冷徹を知られるやり手の実業家だ。その晃司がこれほど取り乱した姿を、その父浩太郎は初めて見た。父の書斎を黙って出てゆく息子に父もまた背を向けながら、深い溜め息を零した。
 結局、美月の失踪が世間に知られることはなかったのだった。

【第一部 炎と情熱の章・了】
★ To Bo Continued ★

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