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紫陽花(オルテンシア)~檻の中の花嫁~

第3章 炎と情熱の章③

 晃司にとっては幸いなことに、本来であれば、彼の致命的な不祥事となるはずのこのアクシデントはマスコミに嗅ぎつけられることはなく、事件は隠密裡に処理することができた。病院関係者には治療費だけでなく、会社の方から〝寄付〟という名目で莫大な金が支払われた。言わずと知れた、口止め料である。
 発見が早く、処置が適切だったため、美月は辛うじて一命は取り止めた。元々、傷はさほど深くはなかったのだ。ただ予想外に出血が多く、大事を取って一週間ほど入院することになった。
 美月の姿がまるで霞か煙のようにかき消えたのは、彼女が病院に運び込まれた二日後の夜のことだった。
 夜半に巡回にきた看護婦が確認した時、既にベッドはもぬけの殻で、個室から忽然と消えていたのである―。
 直ちに連絡を受けた美月の夫押口晃司は八方手を尽くしてその行方を探させ、警察も極秘で捜索に動いたが、美月の消息は依然として知れなかった。晃司本人はこの際、美月の顔写真と名前を公表しての公開捜査を強く希望したにも拘わらず、晃司の父―つまり〝K&G〟ホールディングスの会長である押口浩太郎らが異を唱え、ついに実現しなかった。
 引退したとはいえ、前社長である浩太郎の発言力、影響力はいまだに大きい。浩太郎は会社においても隠然たる勢力を保持しているのだ。たとえ現社長である晃司といえども、父の命には逆らえなかった。
 この件で、常に父には従順であり続けた晃司が、浩太郎に殴りかかっていく場面まで見られた。
―良い加減にしろ、あの女は社長夫人という立場を棄ててまで、自分から黙って姿を消したんだ。もしかしたら、他に男がいた可能性だって、あるんだぞ? お前に近づいたのだって、元々、金目当てだったに決まっている。社長ともある立場のお前が女一人に血迷って、どうなる。少し頭を冷やせ。これまでの冷静なお前に戻るんだ。
―美月は、財産目当てで結婚するような―、そんな薄汚れた女じゃない。たとえ会長であろうが、俺の妻を侮辱するのは許さないからなッ!
 晃司は振り絞るように怒鳴った。
 そう、あの女は、晃司でさえ潔いと思えるほどにあっさりと別離を宣言したのだ。大会社の社長夫人という魅力ある立場でさえも、美月を引き止めることなどできはしなかった。

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