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待ち人

第1章 待ち人

冬になって雪がチラホラと降ってきた頃、忘れかけていたあの娘のことを思い出しちまった。


俺は何故か、導かれるようにまたあの峠に足が向かっていてな。


娘はまだいた。


さすがの俺も心配になっちまって、娘にまた声をかけた。


娘はあの時と同じように、


「待っている人が居るのです…」


それしか言わなかった。


「そんなこと言ってる場合じゃねえ。死にてえのか」


このままだと凍え死んじまうと思った俺は、その娘の手を取った。


えらく冷たい手で、まるで氷を握っているようだった。


でもこの寒さだ。


とにかく、峠を下りよう。


山の麓まで来ると、そこを通りかかった爺が俺の方をじぃっと見つめて居た。


「お前さん、こ、ここへ入ったのか?」


「あぁ、こん娘がいてなぁ。凍えてしまうと思って連れてきたんだ」


「ほう。…娘とはその簪の事かいな」


簪?


握っていた手を見ると、そこには美しく輝いた簪があったんだ。


確かに引っ張ってきたはずだったんだ。


確かに手を握っていた感覚もあったんだぜ。


何度か振り向いて娘の顔も見た。


だけど麓まで来るとあの娘は居なかった。


「…その簪を少し見せんさい」


「これか?いや不思議な事もあるもんだな…俺は娘を連れてきたんだが…」


「……これはお春…わしの恋仲だった娘のモンだ。その簪はわしが…お春にやった簪に違いねえ」


爺の話によると、お春という娘は、ある冬に爺と駆け落ちするためにあの峠にいたらしいが。


爺はその日、突然の高熱でぶっ倒れちまってしばらく寝込んでいたようだ。


出かけようとすると親に引き止められて峠に行けなかったんだとさ。


体調が戻った頃にはお春に文を出しても返事が来なくなったと。


数年経ったあとに爺の元にお春の死が告げられた。


爺はウッウッと泣きながら簪を強くにぎりしめて泣いていた。


俺の前に二度も現れたのはきっと、後悔と悲しみに暮れる爺にこの簪を渡すためだったのかもしれないな。
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