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そばにいて、そしてキスをして

第1章 出会い

「いちじくか…」

店の入り口で長身の男性がつぶやいた。
あ。あの人、アーティチョークの人。

「昨日から入ってるんです。そのまま食べても、生ハムで巻いてもおいしいですよ」

真緒は作業の手を止めて話しかけた。
その人はいちじくの入った箱を前にして何かを考えているのか、返事はない。
おしゃれな人達の多いこの界隈でもひときわ洗練されて見えるのは、きちんとプレスされた白いシャツのせいだろうか。

あの時もそうだった。アーティチョークを前に何か深く考えこんでいた。
先週の月曜日、梅雨冷えのする日だった。昼前から雨足がひどくなり、客は数えるほどだった。天気予報は終日雨とのこと、あまり売れることはないだろうと3株だけ店先に置いた。そのうちひとつを買って行ったのがこの人だった。その時も、こんな感じだった。
そして、今日も朝から雨が降り続く。こんな日は、配達の依頼が多い。注文を受けた野菜や果物を箱に詰めて店の隅に積み上げていく。
あと一時間でアルバイトの男の子が来る。そしたら、配達をお願いしよう。
箱を3つ作ったところで、その人が真横に立っていることに気づいた。

「あのいちじくも、配達してもらえるのかな。その…箱ごと」

無表情で、誰に向かって話しているのかと思ったが、店内には真緒とその人しかいない。

「あ…じゃあ、こちらにご住所とお名前と、お電話番号をご記入ください。」

配達伝票とボールペンを手渡すと、それらを受け取った手がものすごく大きいことに驚いた。傷ひとつない、細くて長い指にも。

倉沢貴司。

どこかで見覚えのある名前…。もしかしたら以前配達をしたことがあるのかも知れない。じゃ、お願いしますと言い、代金を支払って店のドアを開けた。
雨が強くなっているのに、その人は空を見上げて少し笑った、ように見えた。

「あの、倉沢さん。よかったら傘どうぞ」
「いや、たまには雨もいいかな…。ありがとう」

無表情で彼はそう言って、濡れた通りに出た。
配達伝票を見ると、住所はごく近い。
この雨が過ぎたら少しは涼しくなるのだろうか。

これが真緒と倉沢の出会いだった。

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