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そばにいて、そしてキスをして

第1章 出会い

雨足はひどくなるばかりで気温も下がってきた。カーディガンを羽織って窓際から外の通りを見た。
ガラスに映る自分の姿を見て、軽くため息をついた。Tシャツにジーンズ、伸ばした髪はひとつにまとめている。毎日同じスタイル。背は低いほうではないが、手足が大きいのが昔からコンプレックスだ。
ここに店を構えて3年。
下町の八百屋に生まれ育った。いつも新鮮な野菜や果物に囲まれて、店番をしながら色んなことを覚えていった。母は当時では珍しく、野菜を使ったレシピを客に配ったりして店はそれなりに繁盛していた。やがて近くに大型スーパーができ、ただの八百屋は店を畳み、両親は売った土地代で小さなマンションを建てた。
今は家賃収入で暮らしていてそこそこ幸せそうだ。
兄夫婦と孫に囲まれて順風満帆の老後といったところ。だから真緒はこうして好きなことをして生きていられる。
大学院農学研究科植物育種学、などという色気も何もないところを卒業後、種苗会社で研究の職に就いた。 真面目に勤め、それなりに会社に貢献し、学生時代からの恋人といつか結婚し、子どもを産み育て、復帰し…といった将来の青写真がないわけでもなく日々淡々と過ごしていた。
そしてある日突然、このままタネが芽を出すか出さないかを待つ人生に疑問を感じた。後から思えば入社して3年が経っていた。そんな本があったなぁと思いながら。
そして真緒は誰に相談することも、引き留められることもなく会社を辞めた。

アルバイトをひとり雇えるくらいの利益が出てきたのはここ1年くらいだ。地元の雑誌に載せてもらったのがきっかけで客数が一気に増えた。有機野菜とか無農薬とかそんな耳触りのいい言葉だけでなく、正直に書いてくれるようお願いした。それは、「おいしいとは限らない」ということ。近年増えている甘い人参や、苦味のないピーマンは品種改良の賜物。その一端を担っていたのも真緒だ。でも本来の苦味や青臭と安全性を天秤にかけたら?そんな本音がまさか受けるとは正直思っていなかった。「すごくおいしいわけじゃない、でも安全」をわかってくれる一部のひとの支えがあって、真緒はいま小さな八百屋を営んでいる。

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