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硝子の挿話

第27章 泡沫

五感の全てが失われ、指一本も動かせない中で確かに感覚が薄れていく最中だったとしても、瞳は正直で嘘も偽りもなかった。


《良かった…無事だ…》


視界も掠れて人もモノの形もぼんやりとしてるのに、その鮮やかな気配と柔らかな風が吹く湖の静けさを纏わせた影だけは、両目を塞がれても分かる。遠くを見るみたいに追いかけた瞳が見つけた。
大好きな男(ひと)の姿に、ハクレイは安堵と喜びに無意識で笑みを刻む。こちらをただ呆然と映す瞳。目の前で起きたことを否定しようとしているように見開いた瞳。
優しさは、偽りでなかった。

重なることもなく、僅かに指先のみが触れるだけで終わる―――恋。でもそれでもハクレイは満足していた。

自分の結末も込めて。

最愛の二人が無事なら、もう今更こんな身体に執着は持つまい。家族を失った十の年からずっと側で直向な想いを捧げてきた二人が無事なんだ。


もう、いいだろ?
俺の仕事はもう終わってもいいだろ?


消えていく時間がこんなに長くゆっくりと、一時停止をしながら進んでいく。
全てが融けて消えてしまう前に、ユアに届けたい。

世界が壊れていく瞬間を、ハクレイは指先に残った力を振り絞った。

《…もう少しだけ、神よ!力を…》

精一杯残された力を振り絞り、唇に震える指を滑らせ、それから微かに影を頼りにユアに向ける。
《生きて…欲しい…》
もう時間はない。―――既に魂と魄は、この実体から離れようとしている。



ただ願う。
ただ想う。
ただ祈る。

ただ…。
刹那くなる。

―――――愛している。



この汚れた実体と、至純に重ねてきた想いだけを…神に捧げ、――祈る。
もう本当は、ずっと前に限界があった。
ずっとずっと限界だったのに、大丈夫だと長い時間を欺瞞で誤魔化していた。
この先も続く時間があれば、全てを空白化させてしまえるのだと思ったこともある。それさえ幻想の夢物語でしかなかったのに。
そんな資格など、この身体のどこにもありはしないというのに――――。

彼の側で〔友達のフリ〕は…。
もう、ずっとずっと寂しさでしかなかった。


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