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20年 あなたと歩いた時間

第9章 32歳

その人は小野塚陽子と言った。
大学を卒業してからずっと、アメリカと日本を
往き来する生活をしている。
彼女は有能な外科医だそうだ。
陽子さんが滞在しているホテルの
ティールームは、絨毯の毛足が長くて
久しぶりに履いたヒールが埋もれて
歩きにくい。

「お母さん、大丈夫?転ばないでよ」

広輝が心配そうに足元を見る。
少しまえに私の身長を超えた広輝は、
中学校の入学式のために揃えたジャケットと
パンツを身につけて、すっかり学生らしく
見える。

「大丈夫。それより、探してよ。白いスーツのショートカットの女の人」
「うーん…あっ、あの人…若すぎるかな。じいちゃんくらいの年齢だろ…?」

広輝は、ぶつぶつ言いながら少ない特徴を
手掛かりに目を凝らしている。
その時、隅のテーブルから立ち上がる
女性の姿があった。小柄でさっぱりとして、
とても六十代には見えない。
その人は笑顔で私達の名前を呼んだ。

「のぞみさんと、広輝くんね?」
「はい…」

似ている。
流星のお父さんに、似ている。
兄妹だから当然なのだが、
父親似だった流星にも雰囲気が似ている。
左右の目の大きさが少し違うところ。
柔らかそうな髪質や、
きめの細かい皮膚の感じ。

「広輝くん…お父さんに似ているのね」

何と答えていいのかわからない広輝が
私のほうを見る。
写真の中の父親しか知らない広輝は、
そう言われて明らかに戸惑っている。
そんな顔すら、流星に似ているのだ。

「のぞみさん、初めまして。小野塚陽子です」

陽子さんは改めてそう言った。
よく通る澄んだ声だ。

「真島のぞみです。息子の広輝です。この春、中学生になります」

笑顔が、流星に似ている。
ふわっと笑った時の目元がそっくり。
そうだ。こんな風に笑ってくれた。
私はその笑顔に思わず見とれてしまう。
流星。
長い時間をかけて、あなたの笑顔を
記憶に呼び戻す。
どうしてかな。
何もかも失ったと思っていたのに、
あなたを知る人に出会えた。
私の知らないあなたを知る人が、
いま目の前にいる。
私たち三人は、大切な人を奪ったあの震災に
ついてそれぞれ思いを巡らせていた。
お互いを見つめながら。

「…言葉なんていらないわね。あなた方に会って、私、生きていて良かったわ」

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