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20年 あなたと歩いた時間

第1章 14歳

というより、 私達四人のことについて
知らないことなどないと思っていた、
というほうが正しいのかも知れない。
その瞬間に感じていることが、
事実の全てであるかのような、
無責任な純粋さを
私達はまだ持っていた。

駅前の小さな商店の駐輪場に
自転車を預けていた私と真緒は、
奥にいるおばあさんに声を掛けて
百円を払った。するとおばあさんは
袋に入った八朔を指さして、
ひとつずつ持っていきな、と
しわがれた声で言った。
百貨店の紙袋に入ったそれらは、
柑橘のみずみずしい香りを放って
懐かしい気持ちにさせた。
なかなか沈まない太陽の光を
背中に受けて、私と真緒は、
家に向かって自転車をこいだ。
かごにひとつずつの八朔を
転がしながら。
別れ際、真緒はふとさっきの
「そんなもん」の意味を言った。

「流星は、自分の努力で就ける職業に就きたい言ってたよ。じゃあね」

真緒はそれだけ言うと、
スカートをなびかせて帰っていった。
…自分の努力。
流星のうちは自営業だけど、
あまり経営がうまく行っていない
らしい。詳しくは知らないけれど、
半分はもう人手に渡っているって
流星から聞いた。

うちに着くと、珍しくお父さんが
早く帰っていて夕飯の支度をしていた。テーブルにはポテトサラダが
出来上がっていた。

「お帰り。もうすぐできるから、晩メシ」
「うん。あ、そうだ。この八朔」

手に持っていた八朔を
お父さんの鼻先に持っていった。

「…ね。お母さんの匂い」

それは、私とお父さんにだけ
わかる匂いだった。 お父さんは
お味噌汁にお豆腐を入れようとしていた手を止め、ふと窓の外を見た。
その時、私は気付いた。
それまで一度も考えたことなどなかった。
それなのに、
お父さんが窓の外を見た時の表情が
私に気付かせたのだ。
きっといま、お父さんには
ほんの数秒でおびただしい数の
お母さんとの思い出が
よみがえっていたに違いない。
思い出、という言葉さえ
適切かどうかもわからない。
だってお父さんは、
お母さんのことをまだ忘れて
いなかったかも知れないから。
お母さんがいなくなった日常が
当たり前になりつつあった私とは
全然違う、お父さんの中にいる
お母さん。

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