
甘く、苦く
第90章 磁石【色彩】
さっきからこの人は、
なんだかソワソワしている。
それはこの家に上がった時からずっと。
多分、それよりも前からだと思う。
スリッパも靴下も履いてないからか、
床のひんやりとした温度が直に伝わる。
出国してしまう前に、会いたくて。
どうしても会いたくなったから、
撮影が終わったあとに押しかけた。
面倒な俺の我儘を聞いてくれて、
鍵を開けておいてくれていた。
「変な人入るじゃん」
そう冗談を言えば
割と本気に受け止めちゃって困る。
困らせようと思っていたのはこっちなのに、
最終的に困ったのは俺の方だった。
こんな真夜中も快く受け入れてくれる
俺の自慢のコイビト。
“出国”
口に出した途端、
寂しくなってしまった。
正直、ここに来るまでは
そんな感情はなかった。
だってお互い、
会いたくても会えない日が続いたから。
この感情に慣れてしまうのは嫌だ。
初めはそう思っていたけれど、
慣れてしまったのは俺だった。
