煩悩ラプソディ
第11章 始めの一歩/SA
「あんな嬉しそうな潤見たの久しぶりでした」
そう言って暗がりの居間の方を振り向き、眠る二人を優しい眼差しで見つめている。
そんな櫻井さんを見てじんわりと胸が暖かくなって。
「こちらこそ、ありがとうございました。かずも凄く喜んでて…昨日からもうはしゃいではしゃいで」
笑いながら言うと、こちらを向き直った櫻井さんが
「うちの潤も」と言ってふふっと笑った。
コーヒーカップを口に運ぼうとした時、櫻井さんがまたポツリ呟いた。
「…実は、潤にはまだ…
妻のことを言ってないんです」
「…え?」
目線を落として一点を見つめたまま櫻井さんは続ける。
「三ヶ月前に…亡くなったんです。
潤はまだ…そのことを知りません」
「…え、」
三ヶ月前…
かずと同室になった少し前…?
てっきり、櫻井さんも奥さんとは離縁したのかと思い込んでいた。
亡くなっていたなんて…
しかも、ほんの三ヶ月前に…。
「そう…だったんですか…」
「はい…それまで、同じ病院で二人とも治療を受けてたんです。でも、妻が終末期に入ってしまって…
潤だけ、今のところに転院させました」
静かに紡がれる櫻井さんの言葉を、ただ黙って聞いていた。
「潤はまだ、母親が自分と同じように病気と闘っていると思ってます。だから…言えなかった。
そんなこと…とてもっ、」
その声が次第にか細く震え出し、言葉に詰まる。
静まり返った部屋に、涙を堪える櫻井さんのくぐもった声だけが存在して。
かける言葉も見つからないまま、ただ櫻井さんを見つめることしかできなかった。