煩悩ラプソディ
第34章 君の瞳に恋してる/AN
一番下に綴られたその名前をなぞりつつ、無意識に口にしてしまった自分に恥ずかしさが込み上げる。
すると、ふいに楽屋のドアがノックされて返事を待たずに開かれた。
鏡越しに目が合って、慌てて手紙を畳んでリュックに仕舞う。
「…和也、早く着替えなさい」
「っ、はいっ…」
勢い良く立ち上がったせいでガタッと椅子が揺れ、静かな楽屋にやけにその音が響いた。
黙々と着替えをする間もその沈黙は破られることはなく、むしろ張り詰めるような空気に包まれていく。
鏡越しにこっそりと目を遣れば、スケジュール帳に視線を落とす気難しい顔。
その姿からは、初めて会った日の優しい面影は少しも感じられなくて。
これが大人の世界ってやつなんだって、頭ではそう分かっていてもまだうまく飲み込めないんだ。
俺の知ってる翔さんは、どこに行っちゃったのかな…
「和也、明日は午前中のレッスンの後イベントの打ち合わせだから。
空き時間に学校の課題を終わらせなさい」
「…はい」
「それと来週の体育祭、予定通りポスター撮影が入りそうだから厳しいと思う」
「えっ…」
「仕方ないだろ。今はこちらの都合で仕事を選んでる暇はないんだから」
「…わかりました」
そう返事はしたものの、突きつけられた現実にショックを隠し切れない。
高校生になって初めてのクラスメイトとの行事で、すごく楽しみにしてたのに。
只でさえあんまり学校に行けてないというのに、確実に盛り上がるだろう行事にも参加出来ないなんて。
こうしてまた友達との距離が空いていくんだ。
また…同じことの繰り返しなのかな。
自分で選んだ道なんだから後悔する資格なんてないのは分かってる。
でも、こうも淡々とバッサリ言い切られちゃうとやっぱり落ち込んでしまって。
「それと…」
ぽつり呟いた翔さんの声に肩を揺らし顔を上げれば。
まっすぐに俺を見つめる眼鏡の奥の瞳。
最近では、翔さんの口から発せられる言葉にいちいち怯えてしまう自分にも嫌気が差し始めてる。
「これから夜のレッスン後は俺が家まで送ることになったから」
「…え?」
「事務所からの通達だ。帰り道に万が一の事がないようにと」