例えばこんな日常
第29章 オペ室の悪魔と病室の天使/AN
胸元には読みかけであろう数枚の書類が心許なく置かれ、規則正しい寝息に合わせて上下している。
それに余程疲弊しているのか、小さく開いた口が完全に熟睡していることを知らしめていて。
「……」
そんな渡海のあどけなささえ感じる寝顔を見つめ、世良は先程とは違う溜息を一つ溢す。
世良は気付いていた。
自分自身の中に芽生えた渡海への特別な感情に。
傲慢で歯に衣着せぬ物言いを貫く渡海は医局の中でも一際浮いた存在であり疎まれている。
だがしかし、外科医としての腕は圧倒的であり、その繊細かつ大胆な手技を間近で見れば言うまでもない。
そんな渡海の下で研修医として学ぶ内に、羨望や憧憬といった想いはいつしか違う感情に支配されるようになっていた。
見上げるように睨みつけてくる色素の薄い瞳。
口を開けば毒しか吐かない形の良い唇。
それらを纏って気怠げに佇む姿にすら。
「…っ」
ふいにはらりと舞い落ちた胸元の書類。
そこに現れた縒れた首元から覗く真っ白な肌にも目を奪われて。
どれだけ冷たい態度を取られても、信じられない言葉を浴びせられても。
"オペ室の悪魔"の異名を持つこの男に、世良は間違いなく好意を抱いていた。
ーそう、彼は稀に見るドM気質なのである。
世良は興奮を隠しきれないでいた。
こんなに間近で渡海の無防備な寝顔を拝むことができるとは思ってもみなかったからだ。
「…渡海先生」
念の為もう一度呼び掛けてみても渡海は全く起きる気配がない。
本来ならばここで揺さぶってでも起こさないといけないのは百も承知。
さもなければ渡海もろともカンファレンスに遅刻となり、教授のお叱りは避けられないだろう。
しかし世良は葛藤していた。
こんな一世一代のチャンスは二度と巡ってこない。
何故ならば、隙の無い渡海に触れることの出来る唯一の時間が今なのだから。
ゴクリと息を呑み、そっと腰を屈める。
安らかに寝息を立てる表情は、普段の渡海からは想像もつかない程に幼く可愛らしかった。
ふいにハッとして振り返った世良。
数歩後ずさりして二段ベッドの下段に目を遣り安堵の息を漏らす。
猫田さん…よし。
時折バッティングする主任看護師の猫田の存在が無いことを確認し、世良は改めてソファに歩み寄った。