例えばこんな日常
第29章 オペ室の悪魔と病室の天使/AN
「…お前ここで何してた?」
小さく響いたその声色から渡海の機嫌の悪さが計り知れる。
それは顔を見ずとも分かるほど至極不機嫌であった。
世良は土下座のまま返す言葉を探していた。
その場凌ぎの言い訳など幾らでも思い付くが、きっと渡海は核心に触れてくる。
そうなった時に何と言おうかと数回先のやり取りを想定した世良の思考回路はショート寸前だ。
「答えろ。ここで何してた?あ?」
「いやっ、あの…カ、カンファレンスが始ま」
「それじゃない。あぁ、いや…違うか。
…お前俺に何しようとした?」
「っ…」
思いの外早くやってきたそのセリフに世良は思わずビクッと肩を揺らした。
ギシっとソファの軋む音が耳に届き、全身から一気に汗が吹き出してくる。
「答えらんねぇか?こっちはケガしたってのに」
「えっ」
渡海の言葉に勢い良く顔を上げた世良。
ソファに浅く腰掛けた渡海に見下ろされ、その冷めた眼差しにゾクリと体が反応してしまう。
そんなことよりケガをさせてしまったとは大事だ。
慌てて起き上がって渡海に近付けば。
「ここ。切れた」
「あっ!うわっ、すみませんっ!」
人差し指で指し示したそこは唇の端が僅かに切れてほんのり血が滲んでいた。
あたふたする世良をよそに渡海はニヤッと口角を上げてこう言い放つ。
「慰謝料。5000万」
「…はっ?いやそれはさすがにっ、うっ…!」
渡海の無茶な取引に反論しようとした世良は急に胸倉を掴まれて息を止めざるを得ず。
「あと…お前が俺にしようとしたこと、1000万で揉み消してやるよ」
「えっ…!」
「あのばあさん助けた分と合わせて1億6000万だ。
お前に払えるか?あ?」
引き寄せられて見上げられた瞳に言い知れない快感を覚える世良。
突き付けられた言葉は冗談でも笑える内容ではないのに、渡海の声が心地良く脳内に響いて仕方がない。
「…だからお前は俺の下で一生働くんだよ。分かったか?」
「…は、はい」
「分かったなら行けよ、邪魔」
パッと離した手をひらひらと振る渡海の背に一礼し、世良は仮眠室を出た。
今のって…
一生、渡海先生の傍に居られるってことか…!
大会議室に向かう廊下を早足で歩く世良。
そう、彼はドMな上に稀に見る超ポジティブ思考な人種でもあったのだった。