例えばこんな日常
第29章 オペ室の悪魔と病室の天使/AN
病室の番号とそこに記された名前を再度確認し、ふぅと息を吐いて呼吸を整えた。
研修医である身の世良にとって、担当患者と初めて顔を合わせる時が一番緊張する瞬間でもある。
尤も、この相葉雅紀という患者と渡海との関係性が気になるのが正直なところと言っても過言ではないが。
「失礼します…っ、え!ちょっと!」
意気込んで病室に足を踏み入れた世良の目に飛び込んできたのは、ベッドの上で激しく腹筋運動を繰り返す男の姿。
「ちょっと相葉さん!何してるんですか!」
「えっ?何が?」
駆け込んできた世良に気付いたものの、患者と思われる相葉は尚も荒い息を吐きながら腹筋を止めない。
顔中に玉のような汗を纏うその顔はいかにも体育会系の爽やかな風貌であった。
「いやそんなことしたら心臓に負担がっ…」
「え〜?全然大丈夫ですって!」
「ちょっ、ダメですよ!やめてください!」
ニコニコして依然制止を物ともしない相葉に駆け寄り、その肩を無理矢理掴んだ世良。
黒目がちな丸い瞳と目が合ったのも束の間、相葉の視線は世良の胸元の名札に移る。
「研修医…」
「あっ、すみません!この度相葉さんの担当をさせて頂きます、世良雅志と申します」
「え?征司郎じゃないの?」
「あ…今回は相葉さんのご希望に添えられず申し訳ありません」
「えぇ〜?」
分かりやすく落胆した様子を見せる相葉の傍ら、世良の胸には言い様のないざらつきが広がっていた。
きっとこの相葉という男は渡海のオペ技術だけを頼りにここにやってきたのではない。
相葉の口から発せられた"征司郎"という呼び方がそれを物語っていた。
「あの、ちょっとお聞きしてもよろしいですか…?」
ようやくベッドにパタリと体を預けた相葉に、世良は胸のモヤモヤをぶつけるべくその口を開く。
「はい?」
「その…なぜ相葉さんは渡海先生をご指名されたんですか…?」
「……」
恐る恐る訊ねた世良を相葉はベッドに横たわったままジッと見つめる。
これほどまでに汗を掻いていると言うのに、明るめに染めた髪のせいかそれすらも爽やかさを助長している様な雰囲気が漂う。
その瞳から目を逸らさずにいる世良に、相葉はクッと口角を上げて言い放った。
「俺ね…征司郎の元カレなの。理由はそれ」