例えばこんな日常
第29章 オペ室の悪魔と病室の天使/AN
《悪魔の胸に秘めたもの》
目の前にそびえる寂れた館を見上げながら煙草を燻らせる。
まるで廃墟のようにほとんど誰も寄りつかなくなったここだが、渡海にとっては人目も憚らず物思いに耽るには最適の場所であった。
夜の闇に上がっていく紫煙にぼやけて映るのは、もう二度と会うこともないと思っていた男の顔。
屈託のない笑顔と爽やかな風貌は昔と何ら変わってはいない。
一目見ただけで、一度声を聞いただけで。
一瞬にしてあの頃の気持ちに戻りかけた自分に戸惑いを隠せなかった。
あの頃には戻れない。
いや、戻ってはいけない。
たった一つの信念を貫く為に志したこの道。
渡海は嫌という程思い知っていた。
そんな想いもあの男を前にすればいとも簡単に揺らいでしまうということを。
落ち着かせようとやってきた筈のこの場所、携帯灰皿に捻じ込まれた短い煙草の本数が渡海の心中を物語っていた。
静寂に包まれた深夜の病棟に無遠慮なサンダルの音が響く。
その足が向かった先は言うまでも無い、あの男の病室。
前触れも無く個室の引き戸を開けた時、そこには世良の姿があった。
「っ、渡海先生!」
振り返った世良の表情は焦燥し、縋るような瞳を向けてくる。
瞬時に異変を察した渡海は駆け寄ったベッド上の相葉を確認した。
「どけ、俺がやる。お前エコー持ってこい」
「はいっ!」
頷いて病室を出て行った世良の足音を背に、苦痛に顔を歪める相葉に緊急処置を施す。
無駄の無い手技の中、顔中に汗を掻き荒い呼吸を繰り返すそのかさついた唇が僅かに動き渡海を呼んだ。
「せいしろ…」
「…喋るな」
「おれ…」
「いいから黙れよ!」
急変した患者に対してのそれとは余りに掛け離れた言葉を放つ渡海。
まるでその先を言わせないとしているかのような意志がそこにはあった。
黙ってろ…
あのことはもう…
するとふいに握られた手首。
思わず相葉に目を遣ってしまったと同時に止まってしまった手。
そして瞬時に蘇るあの頃の記憶。
っ…
傍らのモニターの警告音と波形のように渡海の胸中は完全に乱されてしまった。