例えばこんな日常
第29章 オペ室の悪魔と病室の天使/AN
先程の容態が嘘のように安らかな寝息を立てて眠る端正な顔。
クローゼットの扉に寄り掛かってジッと相葉を見つめる渡海に、緊急オペには至らず事なきを得たことに安堵する世良が振り返る。
「良かったですね、落ち着いたようですし…」
規則正しい波形と電子音の元を見遣った世良を追い越して、渡海は組んでいた腕をポケットに突っ込みながらベッドに近付いた。
ヘッドライトだけがぼんやりと灯る傍ら。
上下する胸とスースーと細く聞こえる寝息に言い様の無いざらつきが胸に広がる。
「…渡海先生?どうしました?」
無言で相葉を見下ろしていたことに異変を感じたのか、世良が窺うように渡海にそう呼び掛けた。
尚も無言のままの渡海に、一呼吸置いて再度世良が口を開く。
「あの…渡海先生と相葉さんって…本当に…」
「…戻ってろよお前。あと腹減ったから米炊いといて」
「え、あ…はい、分かりました…」
対面で大きな仔犬のように覗き込んでくる瞳を一瞥し、渡海は去り際に振り返った世良に顎で退室を促した。
引き戸のスライド音が止み再び部屋に静寂が訪れる。
ぼんやりと浮かぶ褐色の肌色は患者のくせに大分健康そうにも見えた。
昔からそうだった。
丈夫そうに見えてすぐに体調を崩すし、どんな場面でも気丈に振る舞う割に俺の前では簡単に弱音を吐く。
周囲への自分の見せ方を演じ続けるばかりに、本当の自分をすぐに見失ってしまう。
だから、そんなお前を放っておける筈がなかった。
お前も俺のそんな想いを知っていたんだろ。
言わずとも知れた互いの想いを。
あの時…
この道を目指すと決めた時も、お前の存在が俺を大きく揺さぶった。
どうしても医者になって全うしなければならないことがあると決意を固めても、何度も何度もお前の影がチラついた。
だから…俺はお前から逃げたんだよ。
揺るぎない筋を通す為に。
それにはお前の存在は余りにも大き過ぎた。
もうとっくの昔に忘れていた筈だったのに。
何もかも、お前との日々も全部置いてきたつもりだったのに。
何で今更現れるんだよ。
迷惑なんだよ。
俺にはもう…
この道しか残っていないのに。
「雅紀…」
静かに呟いた名前に引き寄せられるように。
ポケットに手を入れたまま身を屈め、相葉の形の良い唇に渡海のそれが重なった。