しなやかな美獣たち
第5章 ♥:最後のキスは死神と【ファンタジー・NL】
あたしが手首に包丁を入れようとした、まさにその時だった。視界の隅に黒い靄が揺らめき、全身黒一色の服で固めた、強いて言うならビジュアル系バンドマンの様な格好をした男の人が現れた。誰もいなかった筈の空間に、突如現れた人影に驚き、あたしは包丁を持つ手を止めた。
「えーっと……。ここって、"川谷 隼人(カワタニ ハヤト)"の家で合ってる?」
黒ずくめの男が、あたしに話し掛けてくる。「川谷隼人」はあたしの彼の名だ。隼人にこんな知り合い、いたっけかな? 隼人の音楽の趣味はどちらかと言えばアイドル系だし、ビジュアル系の音楽は一切聴かないから、知り合いもいないと思うんだけど。
「隼人なら三日前から帰って来ていません。携帯も繋がらないし、何処にいるのかあたしは知りません。お引き取り下さい」
ビジュアル系の問いにあたしはそう答えると、気を持ち直して自分の手首を見下ろす。流石に人前では切れないよねと、男が出て行くまで待とう、そう思ったのだが……。
「なに、あんた自殺する気? 名前は?」
質問の意味が分からない。自殺をする事と、あたしの名前と何が関係あるのだろう。ああ、切ったあと病院に連れて行こうとしているのかしら?