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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第3章 逃亡~男の怒り~

 だが、この際、贅沢を言っているべきではない。千寿は痛む脚を庇いながら、最後の力を振り絞って歩いた。ものの四半刻も歩かない中に、道が途切れ、それまで周囲を遮っていた緑の樹々がなくなった。
 明らかに誰かが昔、ここにあった樹を切り倒した跡があり、信じられないことに、小さな小屋がぽつねんと建っていた。道を整えたのも、恐らくはこの小屋を建てた者だろう。
 千寿は神仏と、はるか昔にこの小屋を建てたであろう人物に感謝しながら、夢中で小屋に近付いた。
 小屋の方も道と同様、住む者がいなくなって長いらしい。そのことを物語るかのように、屋根や壁の一部が朽ち、崩れかけている部分さえあった。しかし、これだけ土台がしっかりしていれば、何日間はここで過ごすことはできる。
 千寿は注意しながら、その小屋へと入った。表の戸は引き戸になっており、こちらはまだしっかりしている。用心深く、周囲に誰もいないことを確かめてから、元どおりに戸を閉めた。
 小屋はただっ広く、ひと部屋しかなかった。住まいというよりは、猟師が狩りに出た折、休憩や宿泊に使ったのかもしれない。それでも、片隅には藁がうずたかく積まれていて、竈らしきものには、昔、火を焚いた跡も残っていた。
 千寿は積まれた藁にドサリと倒れ込んだ。
 長らく放置されたままの藁は湿った黴臭い臭いがしたが、そんなことに気を払う余裕はなかった。ただ、今はひたすら眠りたい。
 飢えと寝不足が重なり、千寿の疲労は極限状態に達していた。
 ああ、幸せだと、千寿は心から思った。
 何の愁いもなく、手脚を伸ばして眠ることができるのは、どんなにか恵まれていることか。
 白鳥にいた頃の自分は、あまりにも子どもだった。何不自由のない暮らしをし、城主の息子、世継の若君として世の苦労も生きる哀しみも何も知らなかった。与えられる幸福を当然の権利だと思い込み、受け取っていた我が身が今は恥ずかしい。
 城を失い、頼りとする両親、妹までをも失った代わりに、千寿はまた多くの人にめぐり逢った。嘉瑛に知られぬよう、ひそかに火傷の手当をしてくれた牢番の恒吉、更に、森に住んでいた猟師の女房やす。やすは最後まで千寿を庇おうとしてくれた。この世の中には、実に様々な人がいるのだと知った。

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