ネットに落ちてた怖い話
第57章 逆さの樵面
これが失われた3つの舞が千羽神楽に取り戻された事の次第で、未だに千羽に語り継がれる縁起なのです。
その夜、明弘氏の夢に現れた人物は高橋家の5代前の当主であった高橋重次郎氏ではないかと言われています。
高橋家の大刀自は当時100に近い歳であったといわれていますが、明弘氏が披露した舞を見たとき、幼いころに見た曽祖父の舞だと言って泣き崩れたと伝えられています。
さて、失われた4つの舞のうち3つまでは復活しました。
『山姫の舞』
『火荒神の舞』
『萩の舞』・・・
『千羽山譚』によると残る一つは『樵の舞』とあります。
しかし高橋家の土蔵からはこの舞に使われる樵面が発見されず、『樵の舞』だけは亡失されたままでした。
樵面は熊野より落着した日野草四郎篤矩が持参した面とされ、明応七年(1498年)の銘が入っていたと、資料にはあります。
一時期、前述の翁面と同一視されていたこともあったようですが、翁面には永禄五年(1562年)の銘があり、別の面であると
認識されるようになっています。
時は下って昭和40年。
私の父が舞太夫としての手解きを受けたばかりの頃です。
大正時代に高橋家より面が見つかって以来、役場を中心に各旧家の協力の下、あれだけ捜索されても発見されなかった樵面が、あっさりと出て来たのです。
人々を震え上がらせる呪いとともに・・・
その夜、明弘氏の夢に現れた人物は高橋家の5代前の当主であった高橋重次郎氏ではないかと言われています。
高橋家の大刀自は当時100に近い歳であったといわれていますが、明弘氏が披露した舞を見たとき、幼いころに見た曽祖父の舞だと言って泣き崩れたと伝えられています。
さて、失われた4つの舞のうち3つまでは復活しました。
『山姫の舞』
『火荒神の舞』
『萩の舞』・・・
『千羽山譚』によると残る一つは『樵の舞』とあります。
しかし高橋家の土蔵からはこの舞に使われる樵面が発見されず、『樵の舞』だけは亡失されたままでした。
樵面は熊野より落着した日野草四郎篤矩が持参した面とされ、明応七年(1498年)の銘が入っていたと、資料にはあります。
一時期、前述の翁面と同一視されていたこともあったようですが、翁面には永禄五年(1562年)の銘があり、別の面であると
認識されるようになっています。
時は下って昭和40年。
私の父が舞太夫としての手解きを受けたばかりの頃です。
大正時代に高橋家より面が見つかって以来、役場を中心に各旧家の協力の下、あれだけ捜索されても発見されなかった樵面が、あっさりと出て来たのです。
人々を震え上がらせる呪いとともに・・・