赤い糸
第8章 タイミング
記憶喪失という現実を受け入れてから
「書類OK、白衣OK…」
仕事のやり残しがないかと不安になる。
「たぶん…これでよし。」
医局を見渡し部屋を出ようとすると
「おぅ、お疲れ。」
「お疲れ様です。」
手術を終えた川野先生が颯爽と部屋に入ってきた。
そして先生は私の顔を見るなり
「おまえちゃんと寝てるか?」
ストレートにボールを投げてくる。
いつも思うんだけどこの人には嘘をつけない。
「そんな酷い顔してる?」
「鏡見てみろよ。すげぇクマだし肌ボロボロだぞ。」
先生は私の背中に手を添えると
「まぁ座れ。特製のコーヒー淹れてやるから。」
部屋の隅にある先生のデスクの隣にもうひとつ椅子を置いてそこに座れと促した。
「頭はまだ痛むのか?」
「たまに…」
「記憶の方は?」
首を横に振る私に先生はコーヒーカップを手渡す。
「まぁ、こればっかりは焦ってもしょうがないからな。」
先生も席に着くと頭をポンと撫でてくれる。
仕事中はオレ様なくせにプライベートとなると優しく接してくれる。
それが今の私には心地よかった。
「記憶がないと不便ですね。」
だから私は心の言葉を素直に吐き出してしまう。
「そう焦るな。そのうちきっと思い出す日が来るから。」
「だといいんですけど…」
そんな先生からそろそろ答えを聞かせてほしいと言われてる大きなお仕事。
「あの…アメリカ行きの件なんですけど。」
「答えは出たか?」
私の心の中で固まってきてはいるんだけど
「無理にとは言わないけど…おまえのキャリアにはなると思うぞ。」
なかなか首を縦に振れない私がいた。
京介さんの彼女という人に話しかけられてから 私の心の中にまたぽっかりと大きな穴が開いた。
でも、今回の穴はさらに大きい。
だってその事実を京介さんと親友の美紀までもが私に内緒にしていた。
…もう誰も頼れないし苦しみたくもない。
アメリカに行ってしまえば京介さんのことも忘れられるんじゃないかって思う私は強くなったのか弱いままなのか…
「前向きに検討はしています。」
「そか。」
先生はデスクの中から英字が並ぶ書類を差し出すと
「詳しくはそこに書いてある。よく読んで来週には答えをくれ。」
渡された書類に記されている出発日は
「…はぃ。」
1か月後のGW真っ最中だった。