赤い糸
第10章 壁
「あのなぁ…」
俺は朝からずっとオペで疲れてるって言ってるのに
「向こうからの返事待ちだって言ってるだろ。」
璃子は顔を見るたびに俺に頭を下げてくる。
だいたいだ、あの日俺は何度も確認したというのに璃子は首を横には振らなかった。
それどころか
『一日でも早くアメリカに行きたいです。』
なんて、俺を困らせたくせに…
「昨日も言ったけど…あの厚い契約書読んだんだろ?あそこになんて書いてあった?」
「変更できないって…」
「だよな?だから俺は何度も確認したよな?」
契約社会のアメリカではサインをしたらそれで終わり。
俺はあの日の勢いに任せて璃子が快諾した旨をメールしてその日のうちに契約書を郵送してしまった。
「だからもう俺の手にはおえないんだよ。」
小さい体をさらに小さくして頭を下げるおまえに今の俺は無力だ。
「とにかく連絡来たら俺からも話してみるけど…期待はすんな。諦めろ。」
だから、期待なんてさせられない。最悪の結果を飲む覚悟で望んでもらうしかない。
「…わかりました。お先に失礼します。」
ペコリと頭を下げて今日もフラフラと医局から出るおまえに
「おい!送ってこうか?」
「大丈夫です。」
ここでも振られるオレって…
いったいナニやってんだろ。
首を縦に振ってくれたあの日、俺は微かな期待と共にアメリカの研修先へとメールを送った。
璃子が甘えられるのは俺しかいないと空港で倒れたおまえを抱き寄せたときと同じ純粋な気持ちで
「…はぁ。」
それなのに 野球の兄ちゃんは振りまくっていたバッドにやっとボールを当てて勝ち越しのホームを踏んだ。
でもな、ここで試合はまだ終わらない。
ホームランを打たれなければあとはボールの処理を的確にするだけ。
そうすればこれ以上点数は重ねられない。
「刻んでいくしかねぇな。」
璃子の記憶が蘇るその日まで続く延長戦。
あの笑顔を独り占めできるのはオレかアイツか…
野球の神様と医学の神様の総決戦!
「さて、回診してくるか…」
結果がすべての医学の世界。
「俺にはおまえが必要なんだっつうの。」
まだまだ仕事が終わらない俺は璃子の淹れてくれた濃いコーヒーを飲み干してドクターコートを羽織った。