貴女は私のお人形
第8章 だから世界の色が消えても、
「良いの」
優しい、泣きそうになるほど優しい声が、乙愛を撫でた。
乙愛は純の腕の中にいた。純の体温に安心して、そこには薔薇の匂いも入る隙がない。
「乙愛」
──ごめん。
純の声が、震えた気がした。
「田中さん」
心なしか改まった純の態様に、乙愛は違和感を覚えた。
何より欲していた純の腕をようやく得ていた乙愛の身体が、自由になった。
純が、やはり完全に男の姿をとった田中希壱に向き直っていた。
希壱の手には、乙愛も知っているものが収まっている。それでいてここには相応しからぬ、映画やドラマのスクリーンのこちら側でまみえるには慣れないものだ。
何故、希壱が警察手帳を持っているのだ。
「あの、純様……」
「乙愛と、二人で話がしたい」
純の袖に片手を伸ばした純が希壱を見澄ました。
「話をする必要があるのか」
「話すよ、二十年前のことも」
「──……」
愛する女と正体不明の男性を、交互に見る。
何故、純が乙愛と二人きりになるのに、希壱の許しが必要なのだ。
純が乙愛に話そうとしている二十年前とは、何のことだ。
皆、何をしているの?…………
怖い。皆、怖い。
純の存在だけが、乙愛を唯一、安心させる。
「文月さん」
「はっ……はい?!」
「俺の時間は、三十分前に巻き戻る」
「えー……っと」
「乙愛ちゃん」
乙愛は里沙の声に振り向く。
「田中さんは、この現場をまだ見ていないことにする。そう言いたいんだと思うわ」
「えっと……」
「乙愛ちゃんと神無月さんが、二人きりになれる場所へ。ここだと落ち着かないでしょうから、行って?」
「──……」
里沙が希壱を瞥見した。
しかつめらしく口を一直線に結んだ希壱が頷いた。
確かにここでは落ち着かない。
頭は朦朧とするし、すずめによく似た人形があるここにいると、乙愛は胸が痛くなる。希壱が乙愛に理解出来るよう、状況を説明する望みも薄い。それに、里沙が最も正常に見えて、さっきから携帯電話を握った手が震えている。
純と、二人きりになりたい。
とにかく今は、乙愛は純と。
「行こ、乙愛」
純に肩を抱かれて、乙愛は白薔薇の部屋を出た。