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貞勧

第1章 貞勧

けんもほろろに伊佐を拒み叱責するお吉の姿はやはり気高く美しい。

実は伊佐とてお吉の美貌に目がくらんでいた。ハリスにお吉を差し出す時にお毒見役を申し出たがそれには及ばぬとあっさり断られて、お毒見としてお吉を抱こうとする邪な企みは叶わなかった。

今もお吉を助けるといいながらあわよくばお吉を自分のものにしたいという邪な気持ちもあった自分がつくづく厭になった。儂は醜い化け物だ、唐人、鬼畜と罵られなければならんのは儂だと伊佐は涙を流して震えた。

「本当に悪いと思っているなら約束しろ。新政府はおなごを犠牲にした政治はしないと」

お吉は厳しい目で伊佐に迫った。お吉の言うとおりである。おなごのようなか弱い者を守るどころか犠牲にして何が政治だ。何が国作りだ。

開国の礎となったお吉は時代の迷子となってこうしてさ迷っている。

「約束しよう。できる限りのことをしてよい国を作ると・・」
伊佐は深々と頭を下げた。

それからもお吉は人々の心ないイジメを受けて、唯一酒だけが苦しみから救ってくれるという生活を続けた。

愛する下田は開国港町として賑わっているのに、お吉だけが時代の迷子としてさ迷い、酒という名の海を漂流していた。

ついには酒も食糧も尽きてお吉は乞食の群れに入った。

それでも大好きな下田の海はお吉を癒してくれた。しかし、お吉はさ迷い続け、漂流し続けるのに疲れ果てていた。

明治24年3月27日、この日は朝から雨が降ったり止んだりする天気だった。
お吉は下田の街中から3㌔ぐらい北上した稲生沢川の上流門栗ヶ淵に来ていた。

優しかった頃の鶴松との幸せな日々、そしてハリスとの愛に満ちた日々が脳裏に思い出される。

わたしは幸せだったよ、でもね、ちょっと疲れちゃった。ごめんね。おなごのようなか弱い存在が犠牲になることがなく、みんなが笑って暮らせる世の中はやってくるんだろ。そんな世の中を楽しみにしているよ。

お吉は三味線を弾き、歌を歌う。下田で一番の芸妓と言われた美しい歌声だ。

やがてお吉は意を決して川に飛び込んだ。
享年51歳。愛と悲しみに満ちた美しくもはかない人生だった。

お吉の亡骸はどこの寺に供養されることもなく2日間放置された。
唐人なんか供養すれば寺が汚れる。死して尚もお吉は街の人たちの憎しみを受けた。

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