BLUE MOON
第8章 過ち
「痛っ…」
五十嵐さんの長い指が私の額を軽く弾いた。
痛くなんてなかった。
「大袈裟だな。痛いのはそこじゃなくてその小さい谷間の奥だろ?」
「小さい?酷い…」
いや、むしろ救われた。
私は頬を膨らませて五十嵐さんを睨み付けるけど
「いいからその痛むところを解放しろよ」
彼には小細工は通用しない。
「楽になれ」
五十嵐さんはいつも私の心にストレートに言葉をぶつけてくる。
「強がってないけど…怖い…」
だからかな、私もずっと心にしまっていた言葉を自然と紡ぎだせた。
「怖い…なるほど」
言葉にすることによって、気付こうとしなかった自分の気持ちが見えてくる。
「桃子、吐き出しちゃえ」
麻里もそう思ったのだろう。私の背中をトンと叩くとそれがまるでスイッチのように言葉を紡がせた。
「実は…お見合いした日からチーフの様子がおかしいの」
「おかしい?」
「うん、変わりなく見えるんだけど…笑った顔が違うんだよね」
「どんな風に?」
さっきまでお喋りだった五十嵐さんは椅子に凭れて見守るように聞いてくれていた。
「笑ってるんだけど笑ってないの」
「なにそれ」
「話しかけても上の空のこともあるし、凄くお喋りなときもあるし…」
言葉にして思うのは
「距離が生まれたなって…」
現実から背く二人がいたこと。
「チーフに聞かないの?」
「聞けないよ」
「そういうことは聞かなきゃダメだよ」
麻里の言うとおりなんだけど
「聞けるわけないよ」
椅子に吸収されていくように私の体は小さくなっていく。
臆病者の私は現実と向き合いたくないために逃げているんだ。
小さく息を吐いて目を閉じると
「もしかしておまえ、相手知らないの?」
ずっと黙っていた五十嵐さんが口を開いた。
私がコクりと頷くと五十嵐さんは前のめりになって私の瞳を見据えて
「おまえが一人で太刀打ちできる相手じゃないぞ」
まるで忠告するように真っ直ぐに言葉を紡いだ。
アイスグレーの瞳に見つめられた私は動けない。
「五十嵐さんは知ってるんですか?」
麻里は私の変わりにそう問う。
「知ってるよ」
五十嵐さんは私を哀れむようにアイスグレーの瞳を細め
「前に見ただろ?メインバンクの娘だよ」
夢物語の幕が閉じていく。
主演はやっぱり私じゃなかったんだ。