
水曜日の薫りをあなたに
第1章 水曜日、その香りに出逢う
一連の流れをさりげなく窺っていた店主は、最後まで薫に助け舟を出さなかった。薫があの男に心を開き始めた瞬間を見極め、男を自由に泳がせておいても問題はないと判断したのだ。
それはたしかに正しい、と薫は思う。彼女がすぐに店を去ることを決めたのは、あの男の隣にいるのが嫌だったからではない。男のなにげない艶やかな流し目に捕らわれ、香りとは違う“なにか”に惑わされることに耐えられなくなったから――それだけだ。
スーツ越しでもわかる、あの広い肩や長い腕が脳裏によみがえる。グラスを持つ手は大きく、血管が浮き出ていて、指は細長く綺麗だった。
「……指輪」
小さな呟きがこぼれる。
そう。男の左手薬指には、シンプルなデザインのプラチナリングが光っていた。
「だからなんだっての」
あのまま男の隣にい続けたところで、なにかが起こるわけでもあるまい。鏡の中にいるショートボブヘアの女を否定し、薫は手中のボトルを見下ろした。振ってみると、ラベンダー色の液体が揺れる。
あの男に感じた“なにか”は、店内に流れていたピアノジャズの色っぽい音色に誘発された勘違いだ。そもそもあの男だって、リスクを背負ってまでこんな平凡な女に妙なことをする浅はかな人間ではないだろう。
