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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

  始まりの夜

 月がいつになく明るかった。これほどまでに神々しく輝く月をかつて見たことはない。月(ムーン)長石(ストーン)を思わせる丸い月は、どこか気取った両班(ヤンバン)の奥方のようだ。綺麗だけれど、つんと取り澄まして、とりつく島もない。
 しかし、この美しさは、どこか奇妙な感情を呼び起こした。言葉ではなかなか言い表せないけれど、しきりに胸の奥がざわめいているような。仮にこの世に存在するあらゆる言葉の中でたとえるとするならば、胸騒ぎとでもいえようか。
 とにかく、不吉なほどに美しい月であった。
 沙纓(サヨン)は唇をキュッと噛みしめながら、その明るすぎるほど明るい月を眺めていた。
 ふいに感情が一挙にこみ上げてきて、サヨンは滲んできた涙をまたたきで散らす。
 やはり、もう諦めるしかないのか。
 この縁談が正式に両家の間で取り決められてからというもの、サヨンは幾度となく自問自答を繰り返してきた。
 サヨンの父高(コ)永歳(ヨンセ)は都漢(ハ)陽(ニヤン)でも名を轟かせている豪商である。商いの才覚には長けている一方で、自らの利を得るためには人の道にもとることも平然と手を下す冷酷な一面もあった。
 サヨンには優しい父であったが、ヨンセについて、けして良く言う人ばかり―、というよりむしろ悪く言う人の方が圧倒的に多いのも知っている。
 コ氏と李氏(イし)との間でこの縁組みが持ち上がったのが、かれこれ半年ばかりも前になる。
 李(イ)舜(スン)天(チヨン)は、父と肩を並べるほどの商人である。いや、現況ではスンチョンの方が羽振りは良いと言っていいだろう。
 スンチョンは一介の塩売りから身を起こし、一代で今の身代を築いた男だ。李商団(サンダン)の大行(テヘン)首(ス)として他の大勢の商人たちから一目置かれ、畏怖されるようになるまでには相当阿漕な真似もしたと噂されている。
 ヨンセは確かに商売上の取引で情に流されるようなことはなかったが、流石に李スンチョンほど非道ではない。これはあくまでも噂にすぎないけれど、スンチョンは商いのためには殺人ですら平気で行ってきたと囁かれている。
 スンチョンのただ一つの弱点は、出自の低いことにあった。大体、商人は良民(ヤンミン)といって、特権階級である両班の下位に甘んじている。

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