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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

 梅の刺繍は既に半分以上は仕上がっている。トンジュは、なおも巾着を見つめている。大きな手のひらにちょこんと乗った巾着は随分と小さく見えた。
「見事なものだ」
 褒められて、少しくすぐったいような気持ちになった。
「珍しいのね。褒めてくれるなんて」
 サヨンの言葉に、トンジュは意外そうにまたたきした。
「そうか?」
 しばらく間があった。トンジュは人差し指で巾着に咲いた白梅をなぞっている。
「その梅ね。家の前にある梅の樹を思い出して作ったのよ」
 初めてここに連れてこられた日、絶望に覆われていたサヨンの心を慰めてくれたのが、あの白い梅の花であった。早咲きだったため、もう既に花は散ってしまったけれど。
 返事がなかったので、サヨンは顔を上げ、トンジュを見た。と、こちらをじいっと見つめる彼の視線と視線がぶつかった。
 思わず頬が染まるのを意識しながら、サヨンは視線を逸らした。どうも、朝の出来事以来、トンジュを必要以上に意識してしまうようである。
 しかし、視線を逸らしたサヨンを見た彼が辛そうに眼を伏せるのには気づかなかった。
「そんなにやってみたいのなら、やってみれば良い」
 え、と、サヨンが愕きに眼を見開いた。
「本当?」
「本当だよ」
 トンジュがつとサヨンの手を取った。自分の手のひらに乗せたサヨンの小さな手を指で撫でる。
「可哀想に、ここに来てからまだ二ヶ月ほどだというのに、こんなに荒れてしまった」
 サヨンは微笑んだ。
「たいしたことないわ。心配しないで」
「サヨン、俺はお前に余計な苦労をさせたくなかった。お前が今まで労働などろくにしたことがなかったのを俺はよく知っている。髪飾りを俺の手首に結んでくれたときのお前の手は、こんなに荒れてはいなかった。刺繍を町で売りたいとお前が言い出した時、反対したのは、そういう理由もあった」
 綺麗なサヨンの手を汚したくなかったんだ。
 最後の呟きは、囁くように落とされた。

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