恋人⇆セフレ
第4章 上書き
お互い瞳を逸らさず、周りの騒めきも遠のいていく。わずかに呼吸が乱れて、聞こえてくるのは自分の煩いくらいの心臓の音だけだった。
そして、伊織は潤んだ志乃の瞳に吸い込まれるように顔を傾けーーーー
「…っ」
と。唇が触れるところまできた伊織の目一杯に、志乃の迷いのある強張った顔が広がり、寸前のところで動きがピタリと自然と止まった。
「…志乃さん」
伊織が名前を呼べば、睫毛が揺れて、綺麗な瞳が伏せられる。
伊織はその様子を見て、背中に回した腕を優しく解いた。そして、真っ直ぐと志乃を見つめて、それでもいつもよりも落ち込んだトーンで言葉をこぼす。
「まだ、あの人のこと忘れられませんよね…」
ピクッと体を動かした志乃が、申し訳なさそうに眉根を数ミリ下げた。
「…癪だけどな。はっきりしない態度をとって悪かった」
「いえ。一途な志乃さんが好きなので。まだ頑張らせてください」
ニッと白い歯を見せて笑った伊織は明らかに空元気なのだが、ツッコめるわけもなく、志乃も笑いかえすしかなかった。
多分、このまま一緒にいたら伊織に気を遣わせてしまうだけだろう。
瞬時に悟り、一歩後ろに下がる。
「じゃ」
「はい。また連絡します」
「ん」
と、今度こそ踵を返して帰ろうとした志乃だが、チラッと後ろを見ると、飼い主に置いていかれたような伊織が目に映り、深い溜息を落とした。
その視線に気づいた伊織が、慌てて笑みを作るのを見て、馬鹿だなと思う。
あぁ、全く面倒な奴だ。
「俺、実はブレンドコーヒーよりカフェラテ派だから。月曜の朝よろしくな」
志乃は再び足を止めて体の半分だけ伊織の方向に向けると、届くレベルの声を張り上げた。
多分、言っている意味はわかったのだろう。
伊織は一瞬ぽかんとした後、ふっと吐き出すように笑って、あの陽だまりのような笑顔を浮かべた。
「分かりました。待ってます」
それに俺も笑って、今度こそ別れたのだった。