
触って、七瀬。ー青い冬ー
第19章 夢色の雨
「ありがとう、このご恩は決して忘れません。
お名前を伺っても?」
彼女の手を取り、ぐっと距離を縮めると
少し彼女は頬を赤らめた。
俯いた睫毛が何度かぎこちなく揺れる。
「な…名乗るほどのものでは…」
何故です?とその顔を覗き込むようにすると、
ぱっと一瞬視線がかち合った。
「ただ知りたいだけです」
外国風を意識すると、こんな感じに距離感が自然に近くなる。しかしそれは普段から俺がやっている常套手段となんら変わりのないもので、ただこうして目を見て思わせぶりなことを呟いたりするのは仕事の一つですらある。
彼女はもちろんそんな事を仕事にしているような人間とは関わりがない様子で、そんな風に名前を知りたいと言い寄られることも初めてだったようだ。
その証拠に、もう目を合わせようとはしないでただ顔を背けるばかりだった。
名前を言っているどころではない、と赤くなった耳が伝えてくれる。
それを見ると、「ん」と心の中の自分が頷く。
よし、仕事はおしまいだと。
そしてすっとその手を離し、すみませんと大袈裟に後ずさる。
「ああ、名札があったんだね。…中野さん。
必ずまた後日、お礼に参ります。では、失礼」
にこり、と笑顔を顔に貼り付けてスタスタとその横を通りすぎる。
ふう、と伊織はため息をついた。
きょろきょろとあたりを見回してみると、
壁や天井には彫刻で装飾がされていてまるでどこかの教会のようだ。
床にはさく、という感触のいい絨毯が遍く敷かれていた。
懐かしい雰囲気だった。
こんな風に古めかしくも綺麗な場所は。
「…で、テラスにはどうやって行くんだ?」
ひとしきりその雰囲気を味わって八霧に聞くと、
その目はまるで汚いカラスでも見るかのような侮蔑を極めた目をしていた。
「うわあ…」
「あ?なんだよ」
細められた目は鋭く、俺を刺す。
「いーや?ただちょっと君のことを買い被って…
いや、見くびってたとも言うのかなあ?…凄いね」
凄い、というのは一見褒め言葉のようだが、その唾を吐き出すような言い方からするとそうではない。
「もしさっきの事を言ってるなら好きに思ってもらって構わないけど。で、どうやって行く?」
八霧は無言で廊下の奥へと歩いて行った。
その後をおとなしくついて行く。
