テキストサイズ

触って、七瀬。ー青い冬ー

第21章 湖上の雫



いつも隣に座っていたのに、今日は顔を見られない
高梨じゃない誰かがいるみたいだった
でも、その人は確かに言った

「伊織です」

僕は香田が僕を見て顔をしかめている
早く挨拶でもしろ、ということだろう

でもよく知ってる相手に初対面を装うなんて
至難の技じゃないか?
それも僕は声を出せないのに

いや、弱気になったら負けだ

演技の練習、これは演技の練習だ

ようやく決意して、恐る恐る頭を下げた
マスクをしてるから僕だとは気づかない、でも
目を合わせたら捕まるような気がした

高梨はさりげなく僕の顔を覗き込んでくる

「…恥ずかしがりなんですかね」
「…!!」

近い近い近い!距離感覚どうなってんだ!
僕はソファにめり込むように背を丸め縮こまって
なるべく距離をとろうとした

【セミロングか、微妙。やっぱりショートが自然で似合うんじゃないの。ほら】

紘さんがそういうからウィッグを短くしたのに、
これじゃ顔をよく隠せない!

それにこいつ…

「すっごい顔赤くなってる」

と言って笑ってやがる
初対面でそんなに顔を近づけるか、普通
でもここは普通の人間関係を作る場所ではない

そしてそういう接客が習慣化してるということはよ
くわかった

僕は高梨を手で押し除け、メモ帳に文字を書いた

「筆談?」

「風邪で声が出ないんだってよ」

香田はフォローをしているつもりで言ったらしいが、口調がお客に対して砕けすぎていないか
僕が顔見知りということを隠すのを忘れてるんじゃないかこの野郎

高梨は香田にさりげなく目で注意をした
それに気づいた香田、

「はい…何ですか?」

と笑う。裏で殴り合いなんて珍しくないんだろうと容易に想像できる。
やはり、香田はあてにならない

僕は書き上げたメモを高梨に見せた

「えっと?…ああ、飲み物!そうだったね。何がいい?」

高梨が聞くので、高梨に希望はないのかと聞いたら

「俺、酒飲まないんだ。ごめんね」

え?

声が出そうになった
前に僕がステージに立たされた時、
高梨はお客さんから酒をもらって飲んで
その勢いで僕たちは…
って、なんでそこまで思い出した

「俺酒癖悪いから、飲むなって言われてるんだよ
でも酒入った状態で話すの、俺も好きじゃないし
むしろ飲まない方が真剣に話し聞けて仲も深まるかなって」

ストーリーメニュー

TOPTOPへ