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夜の影

第36章 裏・返し

【紀之side】

ホテルの近くにある日本料理店に集まり、まずは盃を交わした。「返し」の際によく使う店だ。

昔、東山の家に居た料理長が挨拶に来て、三献の儀に使う朱塗りの盃を置いて行く。
今の俺が何をしているのか、薄々は気がついている筈だが、心得たもので毎回何も言われない。

上座にMr.Chanと林、下座に俺とアキラ。
簡素だが金のかかった設い。
床の間には一文字だけ「黙」と書かれた掛け軸。

日本好きの外国人は、こういう、いかにも日本的な形式を好む。

三献の儀、とは、いわゆる結婚式の三々九度のことだ。
大事に育てた掌中の玉をお預けします、という茶番だが、これが有るか無いかで実際に客の玉への扱いが変わった。

杯を回した後、手を叩いて合図すると、座敷に入る襖が開いて料理が運ばれてくる。

「私とアキラの時を思い出しますね」

Mr.Chanが嬉し気に言った。

この方は育ちが良い分、どこかお人好しなところがある。
ご本人は冷徹なビジネスマンたろうとしているようだが、何不自由なく育っている分、癇癪を起こすことがあっても基本的には鷹揚なのだ。

「イニシエーションですね、素晴らしいです」

答えた林は感じ入った様子を見せている。
この男、会った時から得体が知れない。
なるほどマツオカのインプレは良く言い当てている。常に笑顔で一見感じは良い。

しかし、時折、インテリ臭が鼻につく押しの強い物言いをする。
Mr.Chanのように、若い男娼に入れあげるような可愛気があるとは思えなかった。
恐らく今見せている顔だけが全てではあるまい。

「イニシエーション、ですか。
宗教儀式のような例えですね」

彼の杯に冷酒を注ぎながら言ってやる。

「ああ、イニシエーションとは違いますか?
英語圏のクライアントが多いので、つい。
ここは良い店ですね。
とても日本的です」

「大人とアキラの『返し』もここでやりました。
そう言えば、アシスタントの方はホテルにお一人でいらっしゃるのですか?」

俺の問いに上機嫌のMr.Chanが答えた。

「彼もこちらに来ています。
急に友人とはぐれてしまって大分気落ちしていると聞いたので、呼んでもらいました。
彼も日本人ですから本場の寿司は喜ぶでしょう?
今は別の部屋に居ますが、リラックスしているといいですね」

林と二人、顔を合わせて微笑んだ。


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