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闇に咲く花~王を愛した少年~

第5章 闇に散る花

 態度だけは慇懃に腰を折り、両手を組んでひれ伏す目上の者に対する拝礼を行う。
 孫尚善もまた少しも変わってはいない。ちょっと見には穏やかで知的な印象は対する者に不要な警戒心は抱かせず、むしろ、安心感を与えるだろう。
 尚善は無言で顎をしゃくった。
 跪いていた誠恵は立ち上がり、更に一礼した後、机を挟んで向かい合った形で下座につく。
「しばらくぶりであったな」
 尚善は向かいに座した誠恵をちらりと見、また視線を手許の盃に戻す。
 誠恵は傍らの銚子をさっと取り上げ、差し出された盃になみなみと酒を注いだ。
「どうだ、宮殿での暮らしには少しは慣れたか?」
 淡々と訊ねてよこす様子には、怖ろしい企みを練っているようには少しも見えなかった。だが、それがこの男の底知れぬところだ。
 誠恵が何も応えずうつむいていると、フと含み笑う声が聞こえた。
「そなたの噂は後宮どころか、朝廷でも轟いている。わずかの間に、随分と名を馳せたものだ」
 どうせ、ろくな噂でないのは判っている。色香で若き国王を籠絡した妖婦などと言われているのだ。
「滅相もないことにございます」
 うつむいたまま応えると、尚善がスと立ち上がった。何を思ったものか、誠恵の傍にやってくる。
 互いの息遣いさえ聞こえるほど近くに、あの男がいる―。そう思っただけで、不覚にも身体の震えを止められない。
 尚善が誠恵の手を握り、力を込めて抱き寄せた。
「―!」
 誠恵にとっては、考えてもみなかった展開だった。
「何をなさいます?」
 強い力で引かれたため、呆気なく尚善の胸に身を預ける形となってしまった。
 誠恵は大いに狼狽え、抗った。
 わずかに酒の匂いを含んだ息遣いが耳許で聞こえた。
「私が何故、あの夜、お前を抱かなかったか、お前はその理由が判るか?」
 その言葉に、誠恵は抵抗を止めた。
 尚善の強い眼が刺し貫くように誠恵を見据えていた。

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