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闇に咲く花~王を愛した少年~

第5章 闇に散る花

 さあ、やるのだ。
 心の中で自分に号令をかける。それを合図とするかのように、後はひと息に刃を振り下ろそうとした。
 室内を危うい沈黙が満たす。
 一瞬の後、誠恵の手からポトリと匕首が落ちた。乾いた音を立てて、匕首が床に転がる。
―殺せ―なかった。
 誠恵の身体が萎れた花のようにくずおれた。
 ゆっくりと眼を見開いたその時、誠恵は愕然とした。
 光宗その人が褥に身を起こしていたのである。
「―殿下」
 声が、戦慄く。
 このひとは、すべてを見ていたのだろうか。
 私が、このひとを殺そうとしていたところを。
 光宗が淡々と言った。
「殺すなら、殺せば良い」
「殿下、何故、そのようなことを―」
 誠恵が堪りかねて言うと、彼は、ふわりと笑った。その花が綻ぶような笑顔は、誰かを彷彿とさせる。
―世子邸下。
 誠恵の瞼に世子誠徳君の笑顔が甦る。
 そうだ、この二人の叔父と甥はとてもよく似ている。顔かたちだけではなく、もっと深いところで似ているのだ。
 他人を疑わない光宗と、他人を信じ、どこまでも庇おうとする誠徳君。
 その時、誠恵は大切なことに気付いたのである。人を愛するのは、信じることだということを。
―人を愛するのは信じること。
 それは、生まれたばかりの赤児にすり込まれるこの世の初めての記憶のように、誠恵の心の中に入り込んできた。
「予を殺して、そなたが楽になるというのなら、予はそれで構わない。元々、予は王となるはずの人間ではなかった。最初から自分のものではない玉座になぞ未練はない。もし、未練があるとしたら、それは、そなたに対してだけだ」
「―!」
 誠恵の受けた衝撃はあまりにも大きかった。王を殺そうとした自分に、どうして光宗はそこまで言えるのだろうか。

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