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闇に咲く花~王を愛した少年~

第2章 揺れる心

  誠恵としても、一日も早く、左議政の屋敷から宮殿に移りたい。その方が事はずっと運びやすくなるだろう。あの左議政の眼の届くこの屋敷では動きづらい。
 いずれにしても、焦っては駄目だ。まずは、この若い王の心を十分に掴まなくては。
 誠恵は、いっそう無邪気な微笑みを浮かべ、王を見つめる。
 王はまるで惚(ほう)けたように可憐な少女の笑顔を見つめていた。

 その二日後、誠恵は左議政孔賢明の屋敷から宮殿に移った。
 いよいよ事を始めるときが来たのだ。宮殿に移ってから、更に数日を経たその夜、誠恵はひそかに自室を抜け出した。たとえ左議政の紹介で入宮したとはいえ、下っ端女官にすぎない誠恵は朝から晩まで仕事が山のようにある。大量の洗濯物から殿舎の掃除と数え上げれば、枚挙に暇がない。
 彼女が昼ではなく夜を選んだのは、他にも理由があった。まず昼は人眼につきすぎる。夜ならば、夜陰にひそかに紛れて動けば、それだけ人眼に立つ可能性は低くなるというものだ。
―国王殿下は夜、大殿(テージヨン)をひそかに抜け出すことがおありだ。
 月華楼の女将香月は、そう言った。
 何に想いを馳せるのか、広大な庭園の四阿から、夜空をじっと眺めているのだ、と。
 誠恵は脚音を忍ばせ、南園に向かった。宮殿の庭園は、それぞれ〝北園〟、〝南園〟と呼ばれる。広大な池があるのは南園で、王のお気に入りは専ら、そちららしい。
 静かな夜だった。桔梗色の夜空に、十六夜の月がぽっかりと浮かんでいる。蒼ざめた丸い月は蒼みがかった水晶を思わせた。
 清(さや)かな月明かりが庭園を照らし出している。眼に映るすべてものが昼間とは異なり、幻想的に見える。草木も花も、小さな小石でさえもが月の光に濡れ、淡く発光しているかのようだった。
 進んでゆく中に、大きな池が見えてくる。到底人工のものとは思えないほど巨大な池は、昼間であれば、美しい錦鯉たちがゆったりと泳ぐ優美な姿を見ることができる。
 池の上に張り出した四阿では、王を初め妃たちが憩い、時折は池の鯉たちに餌を与えている場面も見かけられた。
 もっとも、現国王光宗には、まだ定まった妃どころか、中(チユン)殿(ジヨン)(王妃)さえいなかった。

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