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闇に咲く花~王を愛した少年~

第5章 闇に散る花

 淡い闇の中で艶やかな真紅の薔薇が咲いている。
―領議政の放った猟犬の役目に甘んじるのか、逆に古狸の喉許に喰らいついてやるのか。
 柳内官の今し方の科白が脳裡で大きく反響した。

 その三日後、誠恵は趙尚宮に許可を得て出宮した。というのも、前日に月華楼の女将香月から張夫人を通じて手紙が届き、一度、顔を見せるようにと書いてあったからだ。
 五月の初めに入宮して以来、繋ぎはすべて手紙のやり取りで行ってきた。香月からは何か大切な指示があるときは月華楼で直接伝えると言われていたのに、実際にそんなことはなかった。
 しかし、時ここに至り、香月から帰ってくるようにと言われたのは、けして良い兆とは思えなかった。それもそのはず、手紙が届く二日前には世子誠徳君が何者かによって首を締められるという宮廷中を震撼とさせる事件が起こったばかりなのだ。その直後に月華楼に来いというのは、やはり領議政から何らかの伝言があるはずに違いない。
 ただ一つだけ不思議なことは、誠徳君が自分が首を絞められたときの状況について何一つ語ろうとしないことだった。
 幸運なことに、誠徳君は生命に別条もなく、翌朝には健康を取り戻した。だが、幾ら誰に何を問われても、幼い世子は
―急に背後から曲者に襲われ、首を絞められた。曲者の顔は一切見ていない。
 と、同じ科白を繰り返し続けた。
 周囲の者たちは、それでもなお世子から何か手がかりになることを訊き出そうとしたが、肝心の国王光宗が〝世子が科人の顔を見ておらぬと申すのだから、間違いはない〟と、それ以上の追及を禁じた。
 人々は大いに不服そうではあったが、国王殿下自身が不問に付すと言うのだから、不承不承従うしかない。こうして、世にも怖ろしいこの事件は人々の心に疑惑を残したまま、幕を閉じた。
 誠恵には、誠徳君が自分を庇っているのだとすぐ判った。光宗も世子の気持ちが判るからこそ、この件を沙汰止みにしたのだ。
―世子邸下。―浅はかな私をお許し下さい。
 誠恵は大妃殿に向かって、頭を深々と下げた。たとえ一時でも、誠徳君を殺そうなどと考えた自分を許せない。
 もう、自分はこれで世子に合わせる顔がないと思う。

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