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桜華楼物語

第6章 小袖

私の客の中に、上方から行商に来る貸本屋の男が居る。
いろんな店を回っては商売をして、この桜華楼にもやって来るようになった。
遊女達がいる大部屋で本を広げてるのを、遠巻きに眺めていた私に声を掛けた。

「こっちへ来て見てみちゃあどうだい? 気に入ったものが見つかるかもしれんよ。」

私は嫌々と手を振ると苦笑して。
「私、読み書きは…だめなんですよ。ここで習っちゃいるんだけどね…」
遊女は時として、客に文を書かねばならぬ事があり。
手習いの先生に教わっているけれど、まだまだなのだった。

「何だ、そうなのかい。気にする事じゃないさ。俺も教えてやるよ。」

そんな出会いで、いつの間にか私の客に。
寝物語にいろんな話を聞いて、お互いの話をし合ったものだ。
生まれたのは上州で、最近上方に流れてきたとか。
いつか江戸に自分の店を持ちたいとか。

私も自分の生い立ちを、恥ずかしい過去を素直に告げた。
ただ…あんな兄が居る事は…何故か言えなかった。

そして最近、いつか私を身請けしたいと彼が告げて来たと楼主から聞かされた。
いつになるかわからないが、待っていて欲しいと。

嬉しかった。
夢ならば醒めないでと…強く願った。
そう強く願った分だけ、それは私にとってのどうしようもない弱味となったのだ。

そんな彼の存在を、兄に知られた。

「お前があんまり言う事を聞かねえなら、ちゃんとするようにあの男にお願いしなきゃならねえな…。お前の兄としてよお…」

顔を歪めて笑う姿を見ながら、殴られるより強い痛みを感じて吐きそうになった…。

私はあの人と一緒になりたい。
あの人と小さな店を守りながら…幸せになりたいのだ。

彼にこの男の事を話したら…。
私の兄として認めてくれるかも知れない。
でもそれは…
私だけじゃなく、彼まで不幸にする…。

早く消えて欲しくて、じゃらりと銭を掴むと兄に投げつけて。
「これだけあれば当分は凌げるだろう。早く行っちまってくれ…」
投げつけられた金を、畳に這うように残らず掻き集めて懐に収めると薄ら笑い。

「悪りなあ。精々、稼いでくれ。また来るからな…」

手をひらひらさせて、部屋を出て行った。
私は吐きそうになる胸をぐっと抑えた。

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