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桜華楼物語

第8章 小夜

少しばかり、じっと顔を見つめる。

どんな人混みの中でも絶対に見つけられる。
何を言われても、野暮天…の一言で許せてしまう。
口移しに味わう水は…どこまでも甘く幸せな気持ちになるのだ。

「旦那、そんなに言うなら私も肝を据えて言いますよ…。ええ、好いてますとも。何人の客を相手にしても待ち遠しいのは旦那だけですよ。…商売無しでね。」

「そうかい…。有難いねえ。何だか憑き物が落ちたみたいに気が軽くなったよ。女にここまで言わずなんざ、やっぱり俺は野暮天だな…」
照れ臭そうに笑うと強く抱きしめる。

身体から伝わる鼓動は、思った以上に速い気がした。

「旦那…? 何かありました? 」
ふいに、言いようの無い不安に駆られて。

「まあ、ちょいとな…。久しぶりに一試合やり合う事になってな。知り合いの道場に出稽古させてもらってるのさ。今日はその帰りさね。」

男の剣の腕は確かなものらしく。
浪人ゆえに、縁日で居合抜きを披露して日銭を稼いだり。
金持ちの道楽の剣術指南を頼まれたりするらしい。

その金持ちの推挙で、ある藩の剣術指南の口があるという。
「だがな、浪人風情に任せるのは如何なものかと…てやつでな。藩の中から手練れを募って勝負させようって事になったのさ。」

「そりゃあ、凄いじゃないか旦那。勝てる自信はあるんだろう? 普段やらない稽古なんかしてるんだから…」
いつもの軽口を期待していたら、その目は笑っていなくて。

「ん…どうだろうな。小耳に挟んだ話じゃ、もしかしたら真剣を使うかもしれん。そうなったら…もうそれは命のやり取りだ。」
真剣と言う言葉に、ふとさっき片付けた刀に視線が向かい…胸がどくんと鳴った。

だから、あんな事を聞いたの?
死ぬかもしれないから…?

無言で見つめる様子を察して、やっと微笑んで見せて。
「俺はこう見えても小心者なんだよ。好いた女が居てくれると思うだけで…気持ちの拠り所になるじゃないか。好いて待っててくれる女がよ。」

「待ってますよ。ええ、待ってますとも。今までだって待ってたんだから…これからだっていくらでも待ちますよ。決まってるじゃないか…」

一気に畳み掛けると…。
少し視界が滲んで…唇を噛み締めた。

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