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桜華楼物語

第12章 花里

男は硬く閉ざされた襖の前で、呆然と立ち尽くしたままだ。
仕事で江戸を離れて半年あまり、きっと戻るから待っててくれと約束していた女に会いに来たというのに。

その襖はビクともしない。
部屋の中からつっかえ棒がしっかりと。

男は動かない襖にすがり声を掛ける。

「おい…おい花里…一体どういう事なんだよ…会いたくないたあ…どんな了見なんだよ。あれだけ堅く約束したじゃねえか…。おい、聞こえてるんだろ? 何とか言いやがれ…」

暫くの沈黙の後、ハッキリとした声で。

「全くうるさい男だねえ。約束なんて、あって無いようなものさね。遊女相手に本気にする方がどうかしてるってもんだ。帰っておくれ…」

女のつれない言葉に、その場に座り込むと自分の膝を拳で叩いて。

「何て言い草を…。俺はお前の為にどれだけ通ったと思ってるんだ。私を忘れないでと俺の前で泣いたのは…それはインチキだって言うのか。…ただの商売だって…ただの…」
悔しさが込み上げて、言葉にならずに歯を食いしばる。

また少し沈黙が続くと、部屋の中で微かに物音がして。
言葉はわからないが、密かな低い声がして。
男はハッと顔を上げて、今度は襖を拳で叩いて。

「おいっ…誰か居るのか? 男か…客が居るのか? ひとつ布団の中で無様な俺を笑ってやがるのか…。…ふざけるなよ…どこまでも馬鹿にしやがって…」

一際大きな声で叫ぶと、何度もどんどんと叩き続け。
掴んでガタガタと動かし始めて。
その暴れぶりに、慌てた女中や男衆が取り付き止める大騒ぎになった。

「このやろう…このやろう…お前みたいな女は成仏しねえ。人の恨みで地獄に行きやがれ…」

あまりの騒ぎに楼主が出て来て。
怒りまくる男に謝罪の言葉でなだめすかしてやっとその場から引き剥がした。

集まっていた者達が引き揚げて。
しんと静かになった廊下。
カタンとつっかえ棒を外す音がして。

襖が少し開くと廊下を伺うように、初老の男が顔を出して…すぐに襖が閉まった。

それを待っていたかのように部屋から聞こえたのは。
けたたましく苦しそうな咳であった。

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